自分の存在そのもののうちに悪が痛みという形で紛うかたなく表われているということに気づくまでは、悪人は幻想のうちに閉じこめられています。彼は痛みによって目覚めさせられたときにはじめて、自分が何らかの意味で現実の宇宙と向いあっているいることを知ります。
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確かに、神のメガホンとしての痛みは恐ろしい手段です。それは悔改めることのない、究極的な反抗に導く可能性もあります。しかしそれはまた、悪しき人間にとって可能な矯正に唯一の機会を提供します。それは現実を覆うヴェールを取り去り、反抗的な魂の城砦のうちに真理の旗を掲げるのです。『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、375-376頁
2019年9月26日(木)
痛みや苦しみ、試練によって、私たちの目が覚めるのです。ただし目が覚めることによって、神さまに向かって悔い改めることもありますが、逆に反抗することもあるでしょう。しかしいずれも神さまに向かっていることは同じです。
聖書の中で「悔い改め」と訳されている言葉は、方向変換を表わす言葉であるといわれます。しかし悔い改めという日本語からは、反省という意味を想像します。ですからどうしても自分の力で、神さまの喜ばれる道に生きようと努力することになりがちです。本来の意味である「悔い改め」は、自分に終始していた人生の方向性を180度方向変換し、神さまに向かって生きるということです。方向を神さまに向けるのです。反省をして頑張っていこう、とするのではなく、これからは神さまにおたよりして神さまの恵みの力によって生きていこう、とするのです。そのためには、頑張るのではなく、自分に死ななければなりません。
「それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し/自分を退け、悔い改めます。」(ヨブ42・6)
「しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。」(第1ペトロ5・10)