人間が堕落によって失ったもの、それは人間に固有の、種としての本性だったのです

堕落の瞬間まで、人間の霊は人間という有機体を完全に支配していました。神に従うことをやめても、この支配力を保持できると人間は期待していたに違いありません。けれども、肉体というこの有機体に対する霊の権威は委譲されたものですから、人間が神の代表者であることをやめるやいなやまったく失われてしまいました。自分という存在の根源から、可能な限り、自らを切り離し、そこから遠ざかったとき、人間と力の根源とのつながりも断たれました。
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神はそれ以降、人間という有機体ともっと外的な方法で、すなわち霊の法則ではなく、自然の法則によってそれを支配なさるようになりました。このようにして、もはや人間の意志によって支配されなくなった有機体の諸器官は、通常の生化学的な法則の支配のもとに置かれることになり、そのような法則の相互作用によってもたらされる苦痛、老衰、死といったものをことごとく経験することになったのでした。

そしてさらに欲望が、理性の選択の結果としてでなく、生化学的事実、環境的事実がたまたま促すままに、人間の精神のうちに働くようになりました。

一方、人間の精神そのものも、神が人間の心理を支配するように計られた連想その他の心理的法則の支配下に入ったのです。意志は意志で、自然の大津波のうちに捕えられて、新しい思考と欲望のうちのあるものをただ必死で押し返すほか手がなく、押し返された不穏分子は、現在私たちが潜在意識の名で知っているものとなったのでした。

堕落のこうした過程は、個々の人間に起りうるたぐいの堕落とはまったく類を異にするものだったと私は思います。それは種としての人間の身分の喪失でした。人間が堕落によって失ったもの、それは人間に固有の、種としての本性だったのです。「あなたは塵だから塵に帰る」(創世記3・19)

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、372-373頁

2019年9月23日(月)

私たちのからだは有機体でできています。その有機体を私たちの霊は完全に支配するように神さまは造って下さいました。そこで、心や意志、身体は完全に一つとなっていました。霊の根源は神さまですから、堕落によって神さまとのつながりが断たれ、有機体は霊によって支配されなくなりました。結果、自然の法則、生化学的な法則のもとに置かれたのです。塵で造られた人間は塵に帰らなければならなくなり、人間は死ぬものになりました。これは人間でなくなってしまったということです。
キリストは神さまへの従順の道を全うして下さり、再び神さまとのつながりを回復してくださいました。そうして死ぬものから、永遠のいのちに生きるものとしていただいたのです。神さまのみこころに従って生きるとき、人間は新しく造られたものとして歩み、尽きることのないいのちに生きることを味わうのです。そうして人間となります。

「お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」(創世記3・19)

「その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」(第2コリント5・15-19)