私たちの魂はじつは私たちのものではないのですから

彼らは、「私の魂は私のものだ」と言うことを欲しました。私たちの魂はじつは私たちのものではないのですから、それはまさに嘘を地で行くことです。
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被造物の側におけるこの気儘な行為は、被造物としての彼の真の地位に対する背信ですが、これこそ、人間の堕落として考えられる唯一の罪です。というのは人間の最初の罪の問題点は、それがきわめて忌わしい行為でなければならない(そうでなかったら、あのような恐ろしい結果は生れなかったでしょう)と同時に、すでに堕落している人間を誘う誘惑からは自由であるはずの被造物が犯しうるたぐいの罪でなくてはならないという点にあります。神にそむいて自己に向かうことこそ、そうした二つの条件を満たすものであり、楽園の人間にとっても可能な罪です。
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自分自身でなく神に向かって生きるにあたって私は、まさに私が私であるがゆえにたといささやかな、容易なたぐいのものであっても、何らかの自己放棄の行為を行わなければなりません。
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言ってみれば、彼の所与は意志にまったく従属する精神と肉体とを備えた有機体で、その意志というのは強制されないのにもっぱら神に向かうという性向をもっていたのでした。ですから、堕落以前に彼が行っていた自己放棄は苦しいものではなく、むしろ征服されること自体が喜びであるような、ほんのわずかの自己執着の甘美な征服といったものを意味していたのでした。

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楽園の人間にはしたがって、自己を選択しようとする誘惑(私たちが考えるような意味における)も、自己にかたくなに指向する情熱、もしくは傾向も、存在しなかったのです。自己とは自分であるという、ぎりぎりの事実だけが存在していたのでした。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、370-371頁

2019年9月22日(日)

神さまが創造された世界の中にあって、そのすべてをご覧になって「よい」と言われた被造世界の中にあって、どうして人間は罪を犯すことができたのでしょう。こんにち私たちが罪と呼ぶものは、おそらく犯しようがなかったでしょう。ただ唯一、神さまに背を向ける、そうして「自分は自分のものだ」と言い張ることだけが、犯すことの可能な罪だったのだということです。別の言い方をすれば、神さまのようになろうということだけが、唯一可能な罪だったのです。これが「堕落」と呼ばれるもので、今日生きる私たちのすべての罪の根源にあるものです。
人間は、自分は自分の所有物だ、私の魂は私のものだ、として果たして健やかに生きることができるのでしょうか。自分の創造主である神さまに自分自身を委ねてはじめて健やかに生きることができるのではないでしょうか。神さまの愛のまえに自分自身をささげてこそ、自分らしく生きることができるのではないでしょうか。
自分という存在を神さまの御手の中に置かない限り私たちは自分自身の中においてすでに分裂、分断があるでしょう。意思、精神、肉体がそれぞれにばらばらでしょう。造り主のもとに帰るということはそれらにおいても一つとされることです。

「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』」(創世記3・8-9)