人間の死は罪の結果であり、悪魔の勝利の象徴です。しかしそれはまた罪からの贖いの手段、神が人間に下さった薬、悪魔に対する神の武器でもあるのです
・・・
この規定は刑罰的な宣告(「それを取って食べると、きっと死ぬであろう」)と考えられますが、同時に神の聖愛の表われ、一種の安全装置とも受け取ることができるでしょう。
・・・
それが恵みであるのは、みずからへりくだって自己を死の手に委ねることによって人間が自分の反逆行為を御破算にし、死という、この何とも恐ろしい、醜悪な形式をさえ、永遠に善にして、最悪の生命の欠くべからざる要素である、より高次の、神秘的な死の一例証に変えるからです
・・・
またそれが安全装置であるのは、ひとたび人間が罪に堕ちた以上、自然的な意味での不滅性は、人間にとって唯一の、まったく望みのない運命となるであろうからです。その場合、人間は彼がなさねばならぬ自己放棄へと死という外的必然性によって導かれることなく、終ることのない無数の世紀を通じて彼自身の驕慢さと欲望と悪夢のような文明―この文明は絶え間なく増大する力を複雑化のうちに人間の倨傲と欲望が打ち建てるものです―の鎖を、自分の意志で自分のまわりにますます急速度で巻きつけていきます。そうした自由(自由とこれを呼べるならばですが)を与えられたとしたら、彼は単なる堕落した人間から悪魔的な存在となり、おそらくあらゆる救いの可能性を失ってしまうでしょう。『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、295-297頁
2019年7月29日(月)
死はさばきであるとともに人勢の安全装置である、とルイスは語ります。
「主なる神は言われた。『人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。』主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。」(創世記3・22-24)
「洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」(コロサイ2・12)