私の祖父は牧師でしたが、しばしば「天国に行って、聖パウロと興味ふかい会話をかわすのを楽しみにしている」と言っていたそうです。聖職者が二人、クラブで寛いで話しあうような光景を想像していたのでしょうか。聖パウロに親しく会うということは、篤信の家系の出である、福音的な信仰をもった牧師の場合にもいささか圧倒的な経験であろうということを、祖父は考えもしなかったようです。ダンテは、ペテロとパウロに天国であったとき、自分は巨大な山をまえにしているような感じを受けたと言っています。
聖人に対する祈りに関しては、とかくの議論があります。しかしそれによって少なくとも私たちは、彼らのまえに出たときに自分がいかに小さく見えるかに気づかされるのです。主イエスのまえに立つとしたら、私たちは自分をいっそう矮小な存在と感ずることでしょう。
『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、256-257頁
2019年6月29日(土)
きょう6月29日は「聖ペトロ聖パウロ使徒」の日です。それでこのデボーションの本も今日の日付の個所には「聖ペテロと聖パウロ」と題しての文章が取り上げられています。
「聖人に対する祈りに関しては・・・」は、竹野一雄訳では以下の通りです。
「聖人たちへの祈りについては、いろいろと言うべきことがありましょうが、少なくとも聖人たちの存在は、彼らに比べると、わたしたちが実に小さな人間であることを、わたしたちに絶えず思い起こさせてくれます。聖人たちの主人(イエス・キリスト)の前では、どれほどわたしたちは小さき者となりましょう。」(『神と人間との対話』、竹野一雄訳、23頁)
聖人たちへの祈りは、神さまの前に自分がいかに小さな存在であるかを思い起こさせてくれる大切なことなのでしょう。これを偶像礼拝として退けるのは、人間中心主義の現れなのかもしれません。
「また、わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい。それは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、神から授かった知恵に基づいて、あなたがたに書き送ったことでもあります。」(第2ペトロ3・15)