<神に近い>と呼ばれる状態には、二通りあると思います

<神に近い>と呼ばれる状態には、二通りあると思います。この二つを、私たちははっきり区別しなければなりません。一つは類似の近さです。
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もう一つ、<接近の近さ>とでも言うべきものがあります。
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私たちはわが家のある村へと山道をたどっているとします。ちょうど昼ごろ私たちは断崖の上に達しました。見下ろせば村は私たちの眼下にあり、石を投げれば届くほどで、つまり空間的には私たちの立っているところからたいへん近いのです。しかし私たちは熟練した山男ではありませんから、そこから村へと下りて行くわけにはいきません。五マイルほども迂回しなければならないこともあるでしょう。その迂回の道すがらしばしば私たちは位置的には断崖の上にいたときよりも村にかえって遠ざかっているかもしれません。けれどもそれは静的に考えた場合のことです。動的に考えるなら、私たちは刻々わが家に、一風呂浴び、お茶のテーブルを囲む安息のときを与えてくれるわが家に、断崖の上にいたときと比べものにならないくらい近づいているのです。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、228-229頁

2019年6月10日(月)

世界は神さまの作品であり、神さまのご性質をまとっています。また私たちは神さまの似姿をいただいています。神さまに近い存在なのです。
また日々神さまに近く歩ませていただきます。祈りのうちに神さまとひとつとなるように招かれています。やがて顔と顔とも合わせてお出会いすることとなるのです。

また、このたとえは物理的な近さと精神的な近さといってもいいのかもしれません。
おそらくイエスさまは昇天されて弟子たちや私たちと物理的な距離をつくられたのですが、それによってかえって私たちとの距離が、聖霊なるお方において短いものとなったのだと思います。距離がかえって接近を生み出したということでしょうか。

「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』」(創世記1・26)
「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」(1コリント13・12)
「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。」(フィリピ4・5)