先だって私はある雑誌で、こんな論文を読みました。根本的なことは、私たちが神をどう考えるか―これに尽きるというのです。とんでもないことです! 神が私たちをどうお考えになるかということこそ、はるかに重大なこと、無限にゆゆしいことなのです。まったくの話、私たちが神をどう考えるかということにしても、神が私たちをどうお考えになるかという関連においてしか、重要ではありません。
『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、217-8頁
2019年6月2日(日)
「先日わたしは雑誌の中で、根本は神をどのように考えるかだということを読みました。神ご自身にかけてそうではありません。神がわたしたちをどうお考えになるかが、さらに重要であるばかりか、較べることなどできぬほど重要なことです。まったくのはなし、わたしたちが神をどう考えるかは、神がわたしたちをどう考えるかに関わるのではない限り全く無意味なのです。」(C.S.ルイス宗教著作集8、『栄光の重み』、西村徹訳、19頁)
人間はつねに自己中心です。アダムとエバ以来つねに、神さまがどうお考えになるかよりも、自分がどう考えるかを優先してきました。その結果が、現代社会の中にさまざまなかたちで現れている問題でしょう。
癒しをはじめさまざまな祝福、恵みを考える時も、私の中に何が起こっているかを考える以上に、神さまのほうに何が起こっているか、神さまが何を感じておられるのか、を考えなければなりません。
今日も、神さまがどのようにお考えになっているのかを大切に考えていきたいと思います。
「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、『わたしの服に触れたのはだれか』と言われた。」(マルコ5・29-30)