復活についての記述は、キリストが死後、純粋に(ということは消極的にということなのですが)霊的な存在様式に移られたわけではなく、さりとて、私たちが知っているような自然的生命のうちに入られたのでもなく、まったく新しい性質の自然を備えた生命のうちに移られたことを告げています。
記述はさらに彼が六週間後、それまでのものとはまた異なった存在様式のうちに退かれたことを語ります。
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復活の体が現在の朽つべき人間の肉体ときわめて異なったものであることを信ずる必要があることは確かです。けれどもどんな意味においてであれ、いやしくも肉体という名で表現されうるものの、そのあたらしい状態における存在は何らかの空間的関係をもつもの、究極的にはまったく新しい全宇宙を含意します。それは解体でなく、再建です。空間、時間、物質、感覚という畑から新しい収穫を得るには、雑草を抜き、耕し、種子をまくことが必要です。私たちはそうした古い畑にうんざりしているかもしれませんが、神はけっして倦みたまいません。『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、158-9頁
2019年4月22日(月)
イエスさまの復活は、初穂であると聖書は語ります。イエスさまの復活が初穂となって、それにつづいてイエスさまを信じ者も復活させていただくのだと聖書は語るのです。
復活のからだとはいったいどのようなからだなのでしょうか。
肉体という物質をもたない霊的なものであるのか、というと聖書はそうは語りません。しかし私たちが目の当たりにしている肉体という物質そのものであるのかということ、どうもそうでもありません。復活のからだは「新しいからだ」なのです。
新しいからだに復活させていただくという希望をいただいているのがキリスト者です。
ですから今生きているこの肉体を粗末に扱うことをしません。肉体、あるいは肉的なことをいたずらに否定しません。むしろこの朽ちるからだに生きることを大切にするのです。
「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」(ローマ8・11)