児童文学としてのフェアリー・テールに対する、いっそうゆゆしい攻撃は、子どもを怖がらせることはよくないと考えている人たちによるものです。
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そのような配慮は子どもにかえって誤った印象を与えて、悪しき意味での逃避の傾向を培います。
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フェアリー・テールにおいては見るも恐ろしい姿の人物とともに、太古の昔からの慰め手や助け手の輝かしい姿も見出されるからです。恐ろしい姿の人物にしてもただ恐ろしいばかりでなく、気高い人格を備えているということもあるのです。『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、160-161頁
2019年4月23日(火)
ずいぶん昔かもしれませんが、ディズニーのアニメーションが信仰の妨げになるとして非難したキリスト教のグループがありました。また指輪物語やハリーポッターシリーズを信仰的でないとして子どもに見せてはいけないというキリスト者もおられました。ポケモンを信仰教育によくないとして否定するキリスト者もいました。
私は子どもたちが寝る前にいつも一緒に絵本を読んでいたのですが、そこには、空想上の生き物や魔法や幽霊、不思議なことごとが満ちていました。
親の務めは、子どもが子ども時代に子どもらしく過ごすことができるようにすること、だと思いますので、上記のフェアリー・テールやそれに準じるようなものは大切ではないかと考えてきました。
子どもたちをイエスさまのところに来させること、妨げないこととは、いったいどのような在り方をいうのだろうか、と考えさせられます。偏った宗教教育、世界の文化に対する偏見、律法主義といったことが、子どもたちの心に親や世界に対する不信を育てているとすれば、結果的にイエスさまへの道から遠ざけてしまうのではないかという気がします。
子どもが安心して子ども時代を子どもらしく過ごすためには、親はその子どもの心に寄り添いつつ、親自身が子どものように、しかし同時に子どもの心を受け止めながら共に生きることが大切なことなのだろうと思います。
「しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」(ルカ18・16)