それにまたそうした見解からすると、主の体もじつは幻覚だったのだということになります。けれども幻覚説は次の事実のまえに崩れ去ります。すなわち、この幻影は三度まで、すぐにはイエスと認められなかったのです。
『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、157-8頁
2019年4月21日(日)
弟子たちが復活の主と出会ったということは、弟子たちの幻覚であったとすれば、出会いの瞬間からそれが主であることが分かったはずです。しかし聖書には、出会った弟子たちが最初それが主であることが分からなかった、と語ります。
弟子たちは分からない人格的存在に先ず出会ったというのです。それがやがて主であることが分かるようになったというのです。
ここに聖書の語る復活とはいったい何なのか、ということが語られているように思われます。
「話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」(ルカ24・15-16)