昔のキリスト教の先達は言いました―罪に堕ちなかったとしたら、人間は性を現在よりもっとずっと楽しんでいただろうと。クリスチャンのうちには、キリスト教が性や体や、快楽自体を悪しきものとして斥けていると考えている人たちがいますが、これは間違いです。
キリスト教は世界の主たる宗教のうち、肉体をまったく肯定している、ほとんど唯一の宗教です。キリスト教は物質をよきものと見ています。それは神御自身がかつて人の形を取られたことを信じ、さらに、私たちにもある種の体が天国においてあたえられ、私たちの幸福、私たちの美、私たちの力のかくべからざる一要素となることを信じているのです。『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、123ff頁
2019年3月28日(木)
コロサイ人の手紙で、パウロは、肉の欲望を満足させるだけの生き方として戒律に縛られて生きる生き方を紹介しています。私たちは肉の欲望を満足させないために、手をつけるな、味わうな、触れるなといった戒律に自分を縛ろうとしますが、それは全く正反対のことであると聖書は語るのです。
私たちは「からだのよみがえりを信ず」と使徒信条で告白しています。このからだという言葉はとても大切なことばです。霊と肉とを二つに分けて二元論を語る宗教がありますが、キリスト教はそのような二元論を語っているのではないのです。
「あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き、『手をつけるな。味わうな。触れるな』などという戒律に縛られているのですか。これらはみな、使えば無くなってしまうもの、人の規則や教えによるものです。これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。」(コロサイ2・20-23)