ある種の性格を備えていなければ、神が永遠の世界の扉をあなたのまえに閉ざされるというわけではないのです。そうした資質の少なくとも萌芽といえるものをもっていないと、永遠の世界のすべての条件に取りまかれていても、あなたにとってそこは天国とはなりえない―神が私たちのために意図していて下さる強い、深い、揺るがぬ幸福に浸ることはできないだろうということなのです。
『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、106f頁
2019年3月15日(金)
私たちがこの人生の中で幸福の中にある時、天国のようなだ、といったりします。その「天国」とは自分の幸福感を満たす状況ということで使っている言葉だと思います。しかし天国は私の幸福感を満たすところ、そういう意味で自分の願い通りのところということなのでしょうか。私たち罪びとの願う幸福というのは、ときに隣人を傷つける自己中心性をもっています。
もし自己中心性をもった幸福感を、そのまま天国に当てはめてしまうとすれば、いざ天国にったとき、そこで幸福を味わうことが出来ないのではないでしょうか。天国においてはそこにいるすべての人の幸福が実現するのだ、とすれば、私の幸福と他の人の幸福が一つになっていないと、幸福は実現しないのではないでしょうか。
天国には、争いがなく、そこでは人は永遠に神さまを賛美し礼拝しているのだ、といいます。地上でのしばらくの歩みは、この天国の日々の助走をしていることです。争いのある地上においてしっかりと備えをしていないと、天国にいったとき居心地悪く過ごすことになるのではないかと思います。
「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」(ガラテヤ5・19-21)