「みじめな罪人」という言葉について、私たちは自分の心の状態が問題となっていると感じがちですが、それは大きな誤解です。
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同じ線路の上を満員の乗客を乗せた二つの急行列車が、それぞれ一時間六十マイルのはやさで反対の方向から同時に走りだすとすれば、高い所から見下ろしている人間には、四十秒以内に正面衝突という大惨事が起きることは目に見えているでしょうし、当然、乗客たちを憐みの対象として考えずにはいられないでしょう。乗客たちは自分が自分たちを憐れむべき存在だと思っているわけではないにしても、彼らは確かに憐みに値する人々です。『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、79f頁
2019年2月23日(土)
神さまが私たちをご覧になって憐れんでくださいました。私たちは憐れまれなければならなものであり、そのような状態の中にあるのですが、そのことを罪びとである私たちは自覚できません。しかし自覚できないからといって、憐れまれなければならないものではないわけではなく、またそのような状態でないわけでもありません。神さまにお出会いし、神さまの憐みに出会って、はじめて私たちは自分が憐れまれなければならないものであることを知るのです。
私たちは礼拝によって、自分が憐れまれなければならない悲惨な存在であり悲惨な状況の中にあることを学びます。礼拝は神さまの憐みとの出会いの場です。
「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。」(テトス3・5)