自分自身に慈しみ深く

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自分自身に慈しみ深く
2016年2月2日(火)

私たちの人生には沈黙が必要です。・・・しかし私たちが沈黙に一歩踏み込むと、多くの内なる雑音に遭遇します。・・・沈黙すると、二つの雑音がすぐにやって来ます。欲望の雑音と怒りの雑音です。
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「『私が求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい」と(マタイ9・13)。
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欲望や怒りをもっていけにえを捧げてはなりません。
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私たちは騒がしい自分自身に慈しみ深く関わりましょう。そうすることによってそれらの敵は友となるでしょう。

ヘンリ J.M.ナウエン、『今日のパン、明日の糧―Bread for the Journey』
監修者・嶋本操、訳者・河田正雄、
聖公会出版、2001年11月22日第1刷発行、2015年1月17日改訂版第4刷発行、
68頁。

沈黙することによって、自分自身の心の傷を発見し、じっくりと見つめます。その傷をイエスさまによって癒していただきましょう。

礼拝の中で沈黙する場面がいくつかあります。前奏と後奏、聖餐式の時の吟味。
前奏と後奏の時の沈黙は、もちろんですが、奏楽をしていただきます。奏楽の流れている中に黙祷をします。黙祷ですから、黙って祈るということでしょうけれども、沈黙の方がふさわしいのかもしれません。黙祷というと、自分が神さまに語るということをイメージしますが、本来は神さまの前に静まるということです。この静まるということがナウエンも指摘するようになかなか難しいのです。カトリックのように「沈黙の業」で訓練されていないプロテスタントには、とにかく自分がしゃべるということを中心においている人が多いのです。ですから黙祷において自分がしゃべろう、神さまに語ろうと思っている人にはこの奏楽の音がうるさく感じられるのです。
ですから、自分がしゃべってしまう「黙祷」ではなく、神さまの前に静まる「沈黙」ための一助として、奏楽は大切なのです。

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