「説教教育の以て人を救ふ能はざる所以の者は何ぞや。蓋し其道善しと雖も其力なければなり。必ずや其の道善にして又其力あり、夫れ而る後教へ始めて行はるべきなり。其の道の行はるるや必ず其人に存す。之を授くる者に存す。而して又之を受くる者の如何に在り。並に其人に存するなり。」
新井奥邃、『聖言』、216
「説教教育によっては人を救うことができない、ということの理由は一体何であろうか。まさしくその教えは良いけれども、その力がないということであろう。必然的にその教えは善にして同時に力があって、そうしてのち教え始めて実のある行動となるべきである。そうして教えの実践は必ずその人自身のものとなる。これを授ける者のものとなる。こうしてまたこれを受ける者にどんなにかその実になることであろう。つづいてその人の中に存在するのである。」
この世界にはさまざまな良い教えがあります。しかしそれらが必ずしも人の救い、人を活かすものになるとは限りません。良いと同時に、力が必要です。力がないならば、いくら良い教えであっても人を救うは出来ないでしょう。人を活かすことにならないでしょう。
では力とはいったい何でしょうか。実践力、行動力などさまざまな力を思いますが、私は「喜び」ではないかと思います。あるいは「愛」ではないかと思います。いくら良い教えであっても、そこに喜びや愛がないならば、人を救い人を活かす力はないのではないでしょうか。
〔聖書の個所〕
神の国はことばにはなく、力にあるのです。
(第1コリント4章20節)
たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
(第1コリント13章1~3節)
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