「富にして富ならざる者あり。貴くして貴からざる者あり。富めりと雖も其心安からずんば、何ぞ其れ富める者ならんや。而して今の富者、其心誠に能く安んずる者其れ幾人ぞや。若し権貴にして其心修まらずんば、何ぞ其れ貴たる者ならんや。而して今の権貴、能く其心の修まる者幾人ぞや。」
新井奥邃、『聖言』、130
「経済的に富んでいると見えて真実には富んでいない者がいる。身分が貴いと見えて真実には貴んでいない者がいる。富んでいるといっても、その心に平安がないならば、どうしてそれが富んでいる者だといえるのか。いま富んでいるという者、その心が真実に平安であるものが何人いるだろうか。もし貴いとしてもその心がおさまっていないならば、それのどこが貴い者なのだろうか。いま尊いという者、その心がよくおさまっている者は何人いるだろうか。」
経済的な豊かさ、高い名声を手にしたとしても、平安がないならば、それは豊かでも貴いことでもありません。心に平安があるでしょうか。よく自分の心を修めているでしょうか。
高きに登るということは、いつ落ちるともしれない不安の中に生きるということになります。逆に低きに下るとき、安心と平安を手にすることができます。どんなに経済的に豊かになっても、この世にあっての名声を手にしても、心にへりくだり、謙遜をもって低く生きることを知っている者は、平安を失うことはありません。それこそ真実に豊かな者であり貴い者です。
心に平安があるでしょうか。
〔聖書の個所〕
ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
(ローマ5章1節)
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
(ヨハネ16章33節)
すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。
(へブル12章11節)
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