「夫れ神聖の苦は求めずして至る。避けんと欲して避く可からざるに非ざれども、之を避くれば却て永遠の生命を失ふに至る。蓋し此の苦は此の人に於て使命の至る所なればなり。」

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「夫れ神聖の苦は求めずして至る。避けんと欲して避く可からざるに非ざれども、之を避くれば却て永遠の生命を失ふに至る。蓋し此の苦は此の人に於て使命の至る所なればなり。」

新井奥邃、『聖言』、125

「神さまの手の中にある苦しみは求めなくても与えられる。避けようと願って避けられないことはないが、これを避けるならば、かえって永遠のいのちを失ってしまうだろう。まさしくこの苦しみはこの人において使命が極まる所である。」

 「神聖」を「神さまの手の中にあること」と考えました。人生の苦しみには、神さまの手の中にある苦しみもあればそうでない苦しみもあるということかもしれませんが、それよりもどのような苦しみも、神さまの手の中にあるものとして受け取るかそうでないかの違いではないかと思います。
 苦しみを経験しようとわざわざ新たな苦しみを求めなくても、自分の日々の生活、人生に目を凝らしてみるならば、そこに大なり小なりの苦しみが既に与えられています。その苦しみを神さまの手の中にあることとしてあらためて受け取るならば、そこに永遠のいのちに至る道を手にすることができるのです。
 もちろんその苦しみを避けることもできるのですが、避けていては永遠のいのちへの道を失うことになります。すなわち豊かな人生を歩むことができなくなるのです。
 「使命」とは命を使うと書きますが、命を使ってもそれが永遠のいのちであるならば、使っても尽きることのない「いのち」なのですから、かえって豊かにされるのです。
 苦しみを神さまからのものとして受け取る時、そこに人生の使命を発見します。

〔聖書の個所〕

それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。
(マルコ8章34~36節)

そのとき、主の使いハガイは、主から使命を受けて、民にこう言った。「わたしは、あなたがたとともにいる。・・主の御告げ。・・」
(ハガイ1章13節)

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