〔証人としてのキリスト者〕
2015年8月14日(金)
聖書が証しと証人について語る時、それは常に、他の人間に対して発せられる「人間的発言」です。
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それは常に人間に発せられる発言です。
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この人間の言葉には、他の人びとに神の支配、恵みと審判を思い起こさせる「使命」があります。証人とは法と司法の言葉から出ている概念です。神が証人を必要とされるなら、その考えは一つの訴訟が神と人間の間で行われるという考えです。問題になるのは神の事柄であり、必ず勝利する神の権利です。この訴訟において神は、神から背き、神に対して強情であり、神に敵意を抱いて出会う人間たちに対して、証人たちを呼び出します。この人びとは神の支配、恵みと審判について証しします。彼らは旧約聖書では、神がその民と結んだ契約について証しし、新約聖書ではイエス・キリストの御業、御苦しみ、死と復活について、キリストにおいて出現した神の秘められたご計画の啓示について証しします。
カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、444f。
「証し」。教会に通うようになると、時折「証しをします」とか「何か証しはありませんか」なとどいう会話を聞きます。礼拝や色々な集いの中でも、証しがなされます。
証しと称してどんな話しがなされるのかと聞いていると、日常生活の中で神さまがしてくださった祝福の出来事や、何かのことで反省したり、神さまに心を示されれたりしたことが素朴な言葉で語られています。生きて働いていてくださる神さまを身近に感じる時です。
この証しという言葉は、もともとは「法と司法の言葉」です。何かの出来事を証明するための言葉であり、そのことの証人です。何かの出来事とはこの場合、人間の罪について、そして神さまの愛について、神さまがなしてくださった「神の事柄」です。ですから証しというのは、自分が神さまの前に罪人であること、その罪人である自分には滅びしかなかったのに、神さまの一方的なご愛によって、救われたこと、その神さまの愛の具体的な現れが、十字架と復活であること、が語られることです。証しとは自分に対してなされたこのような神さまの業を語ることです。
証しが語られるときに、そこにその人自身の罪の告白と悔い改め、神さまの愛の業、十字架と復活が語られます。それらが語れないならば、単なる信仰的な体験であるかもしれませんが、証しではありません。証しではないので、たとえ感動や涙があったとしても、人を救う力はそこにはありません。
自分のいわゆる立派な信仰の歩みを語らなければならないと考えて証しに億劫になる人もおられるかもしれませんが、証しとは上記のようなことですので、欠けだらけの自分とその欠けだらけの自分にしてくださった神さまの素晴らしさを単純に語ればよいのです。神さまを賛美する言葉を語ればよいのです。
(祈り)
神さま、あなたを証しする者とならせてください。
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