「悲観に沈淪する勿れ。何をか悲観する、人自ら其の義に陥りて悲しむ、大悲は偏に悲しまず。又楽観に漂ふ勿れ。何の楽観する所ぞや。人の子は未だ首を枕する所なし。大慈の心は忡々たり。」
新井奥邃、『聖言』、113
「悲観に沈んではならない。何を悲観することがあろうか。人は自分自身のその義に陥って悲しむが、大いなる悲しみはひとえに悲しまない。また楽観にさまよってはならない。何が楽観することだろうか。人の子はいまだ頭に枕して眠る所も持っておられない。大いなる慈しみの心は憂えることである。」
悲観論に沈む時があります。何を見ても否定的に考えてしまいます。しかしキリストの悲しみを学んだ者は、いたずらには悲しみません。悲しみの中にも希望を持っています。ですから逆に安心して悲しむこともできます。
楽観論に浮き足立ってしまう時があります。現実から逃避してただ楽しみだけを見ようとするときがあります。しかしキリストの愛を学んだ者は、その愛が十字架の犠牲の上に成り立っていることを知っています。ですから現実逃避の楽観論に遊ぶことをしません。目の前の悲しみや苦しみに心を寄せ、共に痛みを担おうとするところに真実の愛の道があります。
太宰治だったでしょうか、「優しい」という字は、にんべんに憂いと書くといいました。人が憂いを担っているとき、優しいのです。憂いなど何もないという時は、その輝くばかりの灼熱の光で、日陰に咲こうとしている花さえも焼き尽くしてしまいます。
〔聖書の個所〕
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
(第1コリント13章4~7節)
人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。笑うときにも心は痛み、終わりには喜びが悲しみとなる。心の堕落している者は自分の道に甘んじる。善良な人は彼から離れる。
(箴言14章12~14節)
すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、 「人の子には枕する所もありません。」
(マタイ8章20節)
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