「嗚呼神を信ずるに苦しむ者よ、主を信ずるを難ずる人よ、神を唯高しとのみ思う勿れ。神は固に至上なるも、又至近にして至親なり。且つや又、神を神としてのみ想う勿れ。神を牧者として親しむべし。世の所謂牧師に反し、神は善牧者たり。即ち我が主基督なり。」
新井奥邃、『聖言』、102
「神を信じることにおいて苦しむ者よ、主を信じることが難しい人よ、神をただ高く優れて私たちとはかけ離れているお方であるとだけ思ってはいけない。神はたしかに最も高きにおられるお方であるけれども、また同時に最も近くにいてくださる方であり、まさにこの上なく親しい間柄の方である。この世にいるいわゆる牧師とは違って、神は善い牧者である。すなわち私の主キリストである。」
神さまを信じるということは、キリストにおいて信じるということであり、キリストを主として、つまり主人として信じ、信頼するということです。私たちは漠然と神を信じるということが好きなのですが、それでは自分勝手に自分の好きな神、つまりそれは聖書の語る所の偶像なのですが、そのような神を信じることとなります。それでは自分を変革したり、悔い改めたりという人生の方向変換ができません。
キリストは、まことの神であると同時にまことの人となってくださいました。私の最も近いところにいてくださるまことの神さまです。私よりも私に近くいてくださる神です。
「世の所謂牧師に反し」という言葉は私のような牧師には手厳しい言葉ではありますが、真実です。それは牧師も一人の信仰者としてキリストをまことの牧者として主と仰ぎ見る一羊であるということです。またそのような人間を神としないということでもあります。
ただキリストのみを主とする道にこそ、神を愛し隣人を愛する道が開かれます。
〔聖書の個所〕
わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。
(ヨハネ10章11~14節)
だれも神を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。
(ヨハネ6章46節)
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。
(マタイ28章20節)
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