「身近き者必ずしも相親しと謂うべからず。心合ふ者常に居を同じうせず。霊なり、誠なり、親切は形跡にあらず。故に親友と益友とは多くは見えざる処に在り。忠友と信友とは常に安逸の境に反して待つ。」
新井奥邃、『聖言』、91
「身近にいる人が必ずしもお互いに親しいということは出来ない。心が合う人は、常に居場所を同じにしない。霊であり、誠であり、親切といったものははっきりとした跡があるのではない。よって親友や交わってためになる友人という存在は、多くの場合見えないところにいる。まごころからの友人や信頼のおける友人とは、常に安逸の範囲とは別のところにおいて待っている。」
友人を持っているということは素晴らしいことです。友人によって切磋琢磨され、研鑽し、励まされ、生かされていきます。友人の数の多さは大切なことではありません。たった一人でも心の通う友人がいることは、人生を尊いものに感じさせてくれます。
友人になってもらうということと、友人になるということとを切り離しては考えられません。それは一つのことです。友人がほしいならば、まず自分から友人にならなければなりません。
真実の友人は、決して近くにいるということではありません。見えない所にて待っていてくれるものです。
イエスさまはまさに真の友人となってくださいました。見えない存在として友人となってくださいました。見えない存在であるからこそ、より深くその存在を覚えます。
〔聖書の個所〕
わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。
(ヨハネ15章14~15節)
平安があなたにありますように。友人たちが、あなたによろしくと言っています。そちらの友人たちひとりひとりによろしく言ってください。
(第3ヨハネ1章15節)
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