「惟一至尊の神は誠に人の大父母にして、人類は皆神に於て兄弟たらざる無し。故に人は当に相共に愛すべし。相共に殺すべからず。相共に責むべし。相共に侮辱すべからず。相共に道に従うべし。相共に道に反くべからざるなり。」
新井奥邃、『聖言』、72
「ただこの上なく尊いお方である神は、真実に人間の大いなる父であり母であるから、人類はみなこの神に於いて兄弟である。ゆえに人は当然のこととしてお互いに愛し合うべきである。お互いに殺し合ってはならない。お互いに相手を尊重し研鑽し合わなければならない。お互いに侮ったり辱め合ってはならない。お互いにこの道に従わなければならない。お互いにこの道に反した生き方をしてはいけない。」
天と地を造られたまことの神さまは、イエス・キリストにおいて父と呼ぶことのできるお方です。父というと厳しいイメージをいただくかもしれませんが、そうではありません。親鳥が雛をその翼に囲うように、羊飼いが羊を優しく導くように、母のように私たちを守り導いてくださるお方です。父と子と聖霊の三位一体の神の延長線上にこの母なる神を置くような理解もあるのかもしれませんが、新井奥邃先生はきっとそんな理解はしておられなかったでしょう。唯一の神であるお方は、母のようなご性質をお持ちであるということを現わしたかっただけだと思います。
ですから私たちはすべて同じ父と母の子どもとして存在しています。人間はすべて互いに兄弟姉妹なのです。兄弟姉妹だからこそ、互いに愛し合い、研鑽し合い、キリストの道を歩みたいと思います。決して殺し合ったり、侮辱し合ったりして、キリストの道に反するようなことをしないでおきましょう。
一期一会という言葉がありますが、さまざまな出会いの中で相手を自分の兄弟姉妹であると受け止めることは、その出会いはより素晴らしいものにする秘訣です。それは自分も相手も一緒くたに考えるということではありません。たがいの境界線をなくすということではありません。たがいに兄弟姉妹であるということは、お互いに一個の人格として尊重し合うということです。世界の平和の基礎がここにあります。
それにしても聖書の神さまの事を「至尊」と言い表したことはその時代にあって大変大胆なことではないかと想像します。至尊とは多くの場合天皇陛下を指して使う言葉だそうですから。
〔聖書の個所〕
また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。
(マタイ18章15節)
愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。
(ローマ12章9~11節)
最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。
(第1ペテロ3章8~9節)
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