「怒らずして教ふるは萬古不変の訓なり。然れども時あるか、神は萬怒の上に怒る。然れども是れ怒に非ざるなり。是れ人の学ぶべからざる所なり。人は皆小子なり。僭越にして父の権に擬すべからず。」
新井奥邃、『聖言』、61
「怒らないで教えることは、永遠に変わらない教えである。しかしながら時と場合があるのではないか、神さまは大きな怒りをもってお怒りになるではないか。しかしこれは怒りではない。これは人が学ぶことのできない神さまゆえの大事なところである。人はみな子どもなのだ。自らの分を超えたて、父の権威、力のまねをしてはならない。」
怒らないで人を教えることは大切なことです。こんなこともできないのか、とつい怒りをもってしまうことが多いのです。理屈では分かっているけれどもなかなか難しいことです。また怒りを正当化したくなることもあります。聖書を読むとそこにはお怒りになる神さまのお姿が記されています。なんだ、神さまだってお怒りになるではないか、ここで怒っておかないと正義はどうなるのだ、と、怒る自分を正当化するのです。しかし神さまがお怒りになるのは、人間のそれとはまったく別のものです。いわゆる人間の怒りではないのです。人間はみな神さまの子どもです。僭越にも神さまのまねごとをしないようにしましょう。人間が神のようになる。人間が神のように人をさばく。それこそ偶像礼拝の始まりです。
〔聖書の個所〕
怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。
(箴言16章32節)
愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」
(ローマ12章19節)
コメントを残す