〔自由な恵みの福音〕
2015年6月4日(木)
「神の自由な恵み」。恵みは「自由」ですから、人間のいかなる手段や方策にも拘束されていません。教会の告知こそは、そのことを極めて明確にさせなければなりますまい。つまり「教会という場所」は刑務所ではなく、神の恵みの語の四方へ開かれた観覧席です。教会の言葉、神学的言葉、カナン人の信仰深い言葉も、恵みというこの語の束縛であってはなりません。
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恵みはそれほど自由であるということが、たえず繰り返し新鮮な空気を教会に持ち込みます。新鮮な空気、それを教会は必要とします。それに対して私たちは恵みを、私たちの教会の語る言葉と行動という聖なる演技で、とりわけ好古趣味で閉じ込めようとしてはなりません―さもないと昔のデーモンたちを再び呼び寄せることにもなりかねません! 神は私たちが考え望む以上にリベラルであられるでしょう。
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恵みは忍耐強い。だが嵐のように激しくもあります。自由な恵みなので、自由は教会に新しい道をも示し開くでしょう、その道を歩むことに対して教会は心を閉ざすことは許されません。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、328f。
人間のいかなる手段や方法にも縛られないのが神さまの恵みです。私たちはこの恵みに生かされています。
礼拝で歌っている賛美歌の多くは19世紀のリバイバル運動から生れたものだといわれます。その当時、これらの賛美歌が、いかに新鮮で、また斬新で、ある人には奇異で、突拍子もないものだったか、と想像します。それが1世紀以上の時を経て教会の「好古趣味」に組み込まれているとすれば、教会は恵みの自由を知らないこととなります。
神さまの恵みに生かされている私たちは、つねにこの神さまの自由な恵みに生かされていることを大切にしたいと思います。
(祈り)
神さま、あなたの恵みの自由さを教えてください。好古趣味で閉じ込めようとしてしまう私たちを赦してください。
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