〔祈る教会〕
2015年5月15日(金)
ロガーテ(祈れ)の主日(復活後第5)第1 祈りの問題
ロガーテ(祈れ)の主日 第2 イエス・キリストの言葉としての祈り祈るとは、すでに福音において、律法において私たちに語りかけておられる方に向かうことです。
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私たちが神なしでいる(無神でいる)ということはあるかもしれませんが、神は人間なしではおられません。
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神はご自身を私たちの祈りの保証人になさったのであり、神自らが私たちの祈りを聞き届けるものであろうとされました。私たちの祈り全てはイエス・キリストに結ばれて結合されているからです。
神が祈りを聞き届けないことはありえません。それは祈るのがイエス・キリストであるからです。
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キリスト者であることと祈りとは同一のことであり、私たちの気分に委ねられない一事です。それは生活の必要であり、生きるための一種の不可欠な「呼吸」であります。
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神の恵みのあるところで人間は祈ります。
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神の恵みにより慰めを受けるならば、そのとき言葉であるいは言葉なしで、私たちは祈り始めます。
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神は私たちの関心事と問題でもって、一切を神のもとに持っていくことができる確かな道に、私たちを立たせてくださいます。
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私たちに大胆に神に会うよう強いられます。
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祈る人の姿勢は同時に最大の謙譲を要求しています。どんなに「大胆さ」と雄々しさの姿勢があろうとも。良い謙譲があります。その本質は、自由に私たちが、イエスに結ばれて神に対して持つこの場所を受け入れることです。私たちが自らのことを確信して、自分の良き意図には基づかないで神のもとへ来るなら、その時、この自由はおのずから到来します。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、280ff。
人間は神仏に祈り願います。それは人間がもともと持っている能力です。人間だから祈り願うのです。
しかし真実に神さまに祈る道を開いてくださったのは、イエスさまである、と聖書は語ります。自分自身の何かを根拠にして祈るのではなく、神であるイエスさまを根拠にして祈るとき、その祈りは確かなものとなるのです。
神さまを土台として祈る祈るものに、まことの自由がやってきます。
(祈り)
神さま、あなたへの祈りに生かせてください。
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