一段抑えた労働の賛美

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〔活動的な生活〕
2015年5月2日(土)

キリスト教倫理において労働の賛美は、明確そのものであるにもかかわらず、なぜ抑えた賞賛でしかありえないのでしょうか。
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私たちは自らの最上の行為においてすら、間違った世界における間違った人間だということです。
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動労とは、自己の必要、願望、要求の孤立と抽象化における積極的な存在肯定であり、他の人びとの労働を考えないこと、無視すること、それどころか意識的に後回しにする、挫くことにおいて生存肯定であります。現実には、ほかならぬ人の労働の世界では、同胞なしの、同胞に反する非人道的ヒューマニズムです。

カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、251f。

労働することによって、自らが生きていく道を築きます。しかしそれは同時に他の人の生きる道を難しくしたり、制限したり、時に破壊したりします。エデンの園から追放されて以来、労働は矛盾を抱えるようになりました。

イエスさまを信じて、罪ゆるされ永遠の命に生きるようになった人間は、この矛盾を知った者であり、この矛盾をイエスさまによって克服させていただく者でしょう。

すなわち労働が自らと他者とを共に生かしていくものになったということです。あるいは自らと他者とを生かすことが労働の本来の姿であるということを求め続けなければならない、ということでしょう。

今日も私が何かの働きをさせていただくなら、それが自らを生かし、また隣人を生かすものとなっているか、を自らに問いかけなければなりません。

(祈り)

神さま、働きが与えられていることを感謝します。自らを生かすこと、隣人が生きる道を整えることを覚えさせてください。

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