敵の勝利は神の勝利である

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〔ゲツセマネの園にて〕
2015年3月22日(日)

そしてイエスのこの祈りにおいてさらに生じたのは、この世、イエスがその手の下で苦しみ死ぬことになる罪ある人びと自身が―彼らすべて、ユダからピラトに至るまで!―彼らの神との和解のために起こるイエスの死への犠牲的献身という出来事に「積極的に参加せしめられた」のでした。気付いていただきたいのは、イエスの敵として、彼らの信仰的な決定ではなくて、むしろ彼らの極めて不信仰な決定において!―だがまさにイエスの敵、告訴人、審判者、死刑執行人としての彼らの決定において、積極的にそのことに参加せしめられるのです! 彼らはもはや悪魔のものではなく、すでにその悪意の内に心ならずも神の道具なのです。

カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、165ff。

イエスさまは「御心が成りますように」と祈られました。このイエスさまの祈りによって、神さまのみわざが大きく前進します。人びとが悪意をもって決定していくこと、不信仰によって決定していくことが、ことごとく神さまのなそうとされるみわざの前進のために用いられるのです。神さまを殺そうとする行為そのものが、神さまのみわざの道具となっていくのです。なんということでしょう。イエスさまを裏切るユダでさえ神さまの道具なのです。事なかれ主義でイエスさまを十字架刑につけるピラトでさえ神さまの道具なのです。すべてが、悪魔のものではなく、神さまの道具となっているのです。

私たちは、人間の目から見て良いことも悪いことも行います。しかしそのすべてが神さまの御手の中にあると、十字架に向かわれるイエスさまは私たちに力強く語っていてくださいます。神さまのお許しなくして起こることは一つもないのです。「御心が成りますように」との祈りに、私たちは支えられています。私たちも、私たちの人生もすべて神さまの道具として、今あります。

(祈り)

神さま、あなたの祝福が行われるための道具として生かしていてくださるすべての人の一人であることを感謝します。

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