〔神の国について〕
2015年2月15日(日)教会はイエスを信ずることにおいてのみ、設立され成り立つことができます。教会はこの点でもイエスの統治権を認めなければなりません。だがそれは次のような認識を意味しています。すなわち教会は間違うこともありうる、従って、その人間的な分別によりその群れに属する人びとの間では、全く御体の構成員では「ない」、イエスにより選ばれて召命され、聖霊によりイエスを信仰することに目覚めたのでは「ない」、このような人びともありうると認めることです。
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従って教会の集団は、集団としては、「雑多な社会」であり、事実、ただ比喩的に、イエス・キリストの教会と名づけられる、ということもありうるのです。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、106f。
教会において「芽が出て実って見ると毒麦も現れた」などということがあるのか、と思いますが、イエスさまは「ある」とおっしゃいました。すなわちイエスさまを信じて、受洗、入会はしたのですが、信仰生活の中にイエスさまを信じ従っているものとは似ても似つかないような生活の姿が現われてくるということでしょうか。それはもはや教会とは呼べないのかもしれないと、人間的には思ってしまうのですが、イエスさまが「毒麦も現れた」と言われるのですから、それも教会なのです。あるいは教会というのはそういうものであると言うべきなのでしょう。
教会は雑多な社会なのです。
だから教会は、立派な歩みをしているとか、教理的に正しいとか、間違いを犯していないということではなく、ただイエスさまを信じるということにおいてのみ、設立され成り立っているのです。
これがあやふやになると、すなわち一点の曇りもない所が教会であると思いこみ始めると、とたんにつまづきがあちらこちらに起こりはじめます。
もちろん、曇りがあってもどうでもよい、などといっているのではありません。それは人間を人間として受け止める優しさであると思います。
(祈り)
神さま、毒麦のような私をあわれんで下さい。
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