〔神の国について〕
2015年2月12日(木)
イエスが「お求めになった」のは決断だけではなく、決断を導き出し、「実行させ」ました。驚きを引き起こしたのは意図でもましてや自己目的でもなかった。イエスの存在は中立ではありませんでした。それでその存在に対して局外中立はありえませんでした。それは肯定か否かで応えなければならない一つの問いでした―そして肯定であれば、その時はその人全体の断固とした方向転換と回心においてであります。
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何といっても、イエスの死が世界全体の罪に対する裁きであったのですが、その裁きを裁判官であるイエスは彼らの上にではなく、ご自身に対して宣告されたのです。しかしイエスは、まさにこの目的と終結から見て、すべての人びとの代わりにご自身を裁かせられ、万人の裁判官としておいでになるのです。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、101f。
イエスさまは今日も私たちに出会って下さいます。私たちはこの出会いの中によって「決断」が迫られます。中立はありえません。肯定か否定か。方向転換、回心か、それともそのままで生きて行くのか。
それは十字架にも似た決断です。
イエスさまの十字架を見上げつつ、常にイエスさまへの方向転換、回心に生きたいと思います。
(祈り)
神さま、いつもあなたの方を向いて歩む者としてください。
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