〔すべての人びとへの召命〕
2015年1月30日(金)イエスはすべての人びとをご自分のもとへ招き、すべての人びとを自分に属すると見なすに十分広く自由であられる。
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イエスは赦しをもって人びとを掴みます。・・・イエスは誰をも排除なさらない。すべての人びとのための「赦し」、すなわち、進歩的な人びとのため、愚かな人びとのため、教養ある人びとのため、教養のない人びとのため、改宗者のため、非改宗者のため、重懲役刑の服役者のため、説教壇上の牧師のための赦しであります。
イエスは私たちすべてに対して、ただ「一つ非難」しておられる、というのは私たちが神から離れてしまったということ! そして私たちすべてのために、神は誠実であられるという「一つの約束」だけをなさる!
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すべての人びとが疲れており、重荷を負っているからです。
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イエスは私たちの妻たちに家計の正確さではなく、彼女らの疲労と困惑を尋ねられる。私たち夫には業績ではなく、密かな恥を、私たちの良心にあるエゴイズムの傷を尋ねられます。
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イエスは敬虔な人びとに彼らの回心の状態を尋ねません。それはファリサイ派の質問であるからです。むしろ彼らが「わたしは信じます、主よ、不信仰なわたしを助けて下さい!」と叫ぶかどうかを問われます。イエスにとって注目すべきことは、決して私たちの正義ではなく、不正であります。イエスが考慮されるのは、私たちが疲れた者、重荷を負う者であるということだけなのです。
カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、76ff。
イエスさまの招きの中にある自分を発見するとき、その自分とは疲れた者であり、重荷を負っているものです。疲れていることを知らず、重荷を負っていることも知らないならば、イエスさまの招きの中に自分を発見することができません。
(祈り)
神さま、罪人である私をあわれんでください。
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