「後の人で先になる者があり、先の人で後になるものもある」。 (ルカによる福音書13章30節

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〔すべての人びとへの召命〕
2015年1月28日(水)

イエス・キリスト―今ここに私たちの希望があります。このことははっきりとすべての人びとに、つまり非キリスト教徒、異教徒、理論上も実際にも不信心な人びとにも適応しうるのです!

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イエスは失われた人びとをこそ探し、救おうとされます(ルカ19章10節)、イエスがおられなければ失われたままであるに違いない人々を。イエスはまさにその人びとの希望であります。

キリスト者たちは・・・彼ら自身もかつては非キリスト者であったか、あるいはなんと眠りこけていたか、それどころか死んだキリスト者、実際に結局やはり非キリスト者ではなかったでしょうか。

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キリスト者が一人の同胞をノン・クリスチャンであると見損なって判断することになったらどうでしょう。

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キリスト者が、自分がキリスト教的であることについて思い違いをし、キリスト者というよりは実際にずっとノン・クリスチャンであるとしたら、どうでしょうか。

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イエス・キリストは、イエスが彼らのためにあるようにはイエスのためにはない人びとにも、希望であります。すなわち、あらゆる種類のノン・クリスチャンにも与えられている約束のもとで、約束の力のもとで、なのです。

カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、62f。

イエスさまを信じているかどうか、は大切な分かれ道です。イエスさまを信じているから救われていることを確信することができるからです。しかし救いそのものを人間は判断することはできません。あるいは許されることではありません。それは神さまがお決めになることです。私たちはただイエスさまを信じる者とされたことを喜び感謝するのみです。間違っても、まだ(そうです今はまだ)信じていないかに見える人びとを、まるで神にでもなったかのように、救われていない人である、などと決めつけてはいけないのです。また逆に自分が救われているとして、まるで自分自身が特別な何かになったかのように人びとを裁いてはいけないのです。これは間違った選民意識です。

残念なことに、多くの宗教の中にこの間違った選民意識があります。そしてクリスチャンを標榜する人びとの中にもいかに多いことでしょう。

後の者が先になり、先の者が後になる、と言われたイエスさまのお言葉を大切に聞かなければなりません。

そうするならば、あらゆる人との関わりを大切に考えることができます。

この世に自分のかってな判断で殺されていい人は一人もいないのです。

(祈り)
神さま、あなたがすべての人の希望であることをわたしに教えてください。

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