「それを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った」。 ルカによる福音書5章8節

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〔弟子の召命〕

2015年1月26日(月)

神は憐れみ深くあることによって、ご自分が憐れむ者に対して自己主張をなさる、神はその者の反抗に抵抗し、それを破り、ともかくご自身の良き意志を彼に生じさせようとします。従って、神が憐れんでくださる者は、自分への神の対立を体験することになります。―それゆえ神の選びと慈しみの素晴らしい御業に直面して、ペトロの驚きの叫びにならないような神信仰は生じえません。

よく判って欲しいのですが、ほかでもない信仰者が、ただ信仰者だけがこのように言うのです。というのはほかならぬ恵みから、恵みからだけ、人に強いてそう語らせる神の審判が出てくるからです。恵みを見いだせなかった者、従って信じない者は、このようには申しますまい、その人は審判をむしろ避け、自分に対してもそれを隠し、実際、それをまったく見ることすらできないでしょう。

ただしその人は実際には裁かれており、それを知ることなく、永遠に裁きに堕ちるでしょう。彼は自分に反抗するものに服従することなく、悔い改めることなく、認識もなく、それに助けも希望もなく苦しむでしょう。

カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、65ff。

神さまの恵み、憐れみにお出会いして、人間ははじめて自分が罪人であることを知ります。神さまの恵みによって自分が罪人であることを知るのです。ですから神さまの恵みに出会った者、すなわち信仰者だけが、自分のことを罪人であると告白することができます。罪人である自分をしっかりと見つめることができるのです。

自分のことが罪人であると分からない者、神さまの前にも人々の前にもそのように告白できない者は、結局のところ神さまの恵みや憐れみにお出会いしていないのです。神さまの恵みや憐れみを知らないのです。ですから信仰者とは言えないのです。

自分の義、自分の正しさを主張している時、人間は信仰者でないのです。

神さまの恵みと憐れみの中で、このどうしようもない罪人である自分を発見した時、神さまと自分との間にある深い溝、深淵を発見します。それは人間には到底越えることのできない深淵です。しかしその深淵を飛び越えて来てくださった、それがイエスさまです。神であるお方が人間となってくださって、そうすることによって飛び越えて来てくださったのです。ここに神さまと人間との和解があります。

これは神さまの力でなければ起こらないことです。神さまの愛でなければ起こらない奇跡です。まさにイエスさまのご存在こそ奇蹟なのです。

このイエスさまにお出会いした事こそ、人生最大の奇跡です。

(祈り)
神さま、あなた愛と恵み、憐れみに感謝します。どうか罪人である私を憐れんでください。

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