〔弟子の召命〕
2015年1月25日(日)ところがです、逆にまずイエスがシモンに比較するとずっと大きな技術的援助を示されて、イエスがシモンにあの不気味なほどの大漁の奇跡を体験させます。この意味は、イエスがこの男の仕事の領域と生活圏に入って来られたことであり、シモンを取り立てて、ご自身の行動領域になさったことです。
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イエスのこの接近と共にシモンに要求されていることに、シモンは自分が相応しいとは思えず、それゆえ可能だとは思えないからです。「わたしは罪深い者だからです」―だが他ならぬこの「罪深い男」の上にすでに際は投げられて、シモンはまさにこの「罪深い男」としてただそれに従っていかなければなりません―最高の統治権を行使することへ。
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「今から後(わたしがあなたの側に入ってきたことで)、あなたは人間をとる漁師になる」(同10節)。「あなたはなる」、かつて、自分をあまりに若いと思っていたエレミヤに言われた言葉と全く同じように! わたしがあなたのところに歩み寄ってきたことで、罪深い男のあなたはわたしの証人に値すると見なされ、資格を与えられてい「いる」、私自身の言葉と行動とを共にしつつ、その奉仕の中にあなたの使命を「持っている」、あなたにはそれを引き受けることと実行することよりほかは全くない。
カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、64f。
イエスさまが私のところに来てくださいました。
イエスさまが私の領域の中に入って来てくださいました。
そして私の領域だと私が思いこんでいたところにおいて、まさに主となってくださいました。
それによって自分が罪人であったことを知りました。
そこで知った罪人とは、まさに神さま抜きでの人生を歩んでいたということです。
その時、イエスさまが、ご自身のご用のために、私を召されます。
自らの罪人であることを深く知った私を、ご自身のご用のために、召されるのです。
そこではじめて主への奉仕が始まります。
(祈り)
神さま、罪人である私をあわれんでください。
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