洗礼の実質は、教会の建設である

執筆者:

カテゴリ:

〔イエスの洗礼と私たちの洗礼〕

2015年1月16日(金)

どのような洗礼行為であってもそれ自体、生命の保証だけでなく、生命の証明であり、永遠の続く教会の生命の機能であり、その信仰告白の強化であり、神讃美が公に増し加わることであり、この神賛美へと教会は、主が来られるまで、民から民へ集められ招集されます。
・・・
洗礼は原則上個人の行為、あるいは家庭内祭儀としては不可能です。洗礼は原則上教会の公の礼拝の枠内でのみ挙行されることができます。
・・・
神の栄光のためイエス・キリストの教会建設において、神性な確実さをもって次のような「約束」が受洗者に与えられます。つまり、イエス・キリストの死と復活において受洗者も甦ったということ、この出来事に基づいて、受洗者も聖霊の臨在と働きを確信することが許されること、その人の罪も許され、その人も神の子であり、永遠の命の希望は彼の希望でもあるということの約束であります。
・・・
もう一つのことはこうです―人びとはそれをたびたび不当にも背後に押しやりましたが、これも明確に述べられないなら、洗礼の意味は十分に記述されないでしょう。すなわち、受洗者に関し、神の栄光のためイエス・キリストの教会の建設において、神の権威をもって受洗者に要求される感謝の奉仕に対する、受洗者の「義務甘受」がはっきり述べられるのです。

カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、49f。

洗礼の恵みには二つの面がります。一つは「約束」、もう一つは「義務甘受」です。

「約束」とは、神さまからの一方的な恵みによって罪の赦し、永遠のいのちをいただいたということが、洗礼によって確かにされます。

「義務甘受」とは、感謝の奉仕に参加することが、洗礼によって始まるので、その義務を甘んじて受け入れるということです。

この二つの恵みを洗礼によって確かにされます。この二つの恵みを確かにすることで、洗礼によって始まった新しいのちは、生き生きと生きるものとなります。

洗礼を受けた者は、教会共同体の中で何らかの奉仕に携わるべきです。これのないキリスト者は、両輪で前進する車の片方の車輪のない状態です。その信仰生活は前進しません。

感謝の奉仕とは、神さまをご主人として神さまの導きの中でなす奉仕です。賜物を生かすことでも、自己実現でもないし、やりたいことをやることでもありません。
どこまで行っても罪人である人間は、感謝の奉仕といいつつも、自分が中心で、自分の満足のために奉仕さえやってのけてしまいます。自分の満足のために成す奉仕など、うるさいシンバルややかましいどらのようなもので、何の実も結びません。実を結ばないどころか、隣人をそして自分自身を滅ぼしてしまうことにもなるでしょう。

ご主人であるイエスさまの御心に従ってなす奉仕が、感謝を持ってなす奉仕です。これは教会という共同体の中のみで可能です。それ以外のところでは、結局のところ自己満足の行為となります。

約束と義務甘受に生きるキリスト者でありたいと思います。

(祈り)
神さま、教会につながり、約束と感謝のほうに生きるものとしてくださったことを感謝します。

コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA