〔イエスの洗礼と私たちの洗礼〕
2015年1月15日(木)
押印し封印する―これは洗礼の御業に特有のものです。
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洗礼は人を救い、神聖にし、清める、洗礼は罪の赦しと聖霊の恵みを取り次ぎ与える。洗礼は再生を生じさせ、洗礼はその人を恵みの契約の中に、教会に受け入れることであると、私たちに、洗礼におけるすべてについて真実に告げられるということが真正であるかぎり、この一切は真実です。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、47f。
「ある外国人がスイス人の流儀、主義、気質を受け入れるという事実と、そのことが公に承認される憲法上の手続きである国籍付与(帰化)は明らかに別のこと」という例を用いてバルトは、キリスト者の流儀、主義、気質を受け入れているということと、洗礼を受けてキリスト者になるということとは別のことであると語ります。
つまり洗礼を受けるということは、単なる儀式ということではなく、キリスト者となって生きていくことにおいてとても大切なことであると語ります。
洗礼を受けた者は、押印し封印された者なのです。
「依然としてかなりお粗末なスイス人であるかもしれない」けれども「国籍を与えられた」という事実は、その人がスイス人であることの確かな現実なのです。
イエスさまを信じて出発した信仰生活も、いろいろな変化の中に歩むこととなります。人間は揺れ動きます。それゆえ人間なのかもしれません。
だからこそ「洗礼を受けた」という事実は、揺れ動く人間を根底から支える押印であり封印なのです。
自分の足りなさに出会う時「私も洗礼を授かったのだ」と主からの平安をいただきましょう。
(祈り)
神さま、洗礼の恵みに与らせていただき感謝します。
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