〔イエスの洗礼と私たちの洗礼〕
2015年1月12日(月)
まるでイエスが、彼に以前はまだ欠けていた聖霊に、この時やっと与ったかのようなことではないのです。「これは私の愛する子である!(これは今=子に=成った、ではない)」と、洗礼者が聞き取った天からの声も言っています。
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イエスは、神の愛する子であり、最初からそのものであり、その存在全体において、聖なる方、すなわち、聖霊の降臨によって生き、従って聖霊によってまったく満たされ導かれた方、かくして真の、高潔な、王なる方であります。神の御意(みこころ)に適う方であります。
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神はご自分が遣わしたイエスに聖霊を与えられますが・・・分割分与ではなく、溢れんばかりの聖霊の豊かさをお与えになります。そのため、イエスの存在は「肉」として、他のすべての者たちと同様、人間としてでありながら、直接的にイエスの存在は「聖霊」でもあります。このまったく聖化された人間として、したがって個々の来りて再び去り行く霊感の形ではなく、むしろこのイエスの聖なる人間存在の包括的な必然性に相応しく、イエスを聖霊は荒れ野へと駆りたてます(マルコ1章12節)、といういうことはしかし―イエスが引き受けた贖罪の実行において―サタンに対する勝利の戦いへと駆りたてます。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、43f。
イエスさまはまことの神さまであり、聖霊の全き満たしの中に存在されています。その聖霊の満たしの中に、その聖なる人間存在の包括的な必要性に相応しく、悪魔の誘惑を受けるべく荒れ野へと進まれます。サタンに対する勝利の戦いへと進まれます。
聖霊に満たされるということは、このサタンへの勝利の道に生きるということです。それは「これは私の愛する子」という父なる神さまのみ声を聞くことから始まります。神さまからの愛を見失っていては、サタンへの勝利はありません。
サタンへの勝利とは何か。それはまことの人間として歩むということです。裁き主にならないということです。
そのような勝利の道は、神さまからの愛にしっかりと満たされる、神さまの愛をしっかりと確認するところに出発するのです。
いたずらに神のようになろう、裁き主になろうとする欲求は、神さまの愛に満たされていないことの現れでしょう。あなたのここが悪い、あの人のあの部分が間違っている、ひとつ私が言い聞かせてやろう、私がここで言わないと正義が成り立たない、などとの思いで語り行動している時、私たちは神さまの愛が何もわかっていないのです。
「これは私の愛する子」という神さまの語りかけのなかに出発しなければ実を結ぶ人生は築かれません。人間の生涯は短いものです。その終わりの時に何ひとつ実を結んでいない自分を見て絶望の中で死を迎えることのないように、神さまの愛をしっかりといただいていきたいと思います。
(祈り)
神さま、このような私にも、全き愛に満たされておられるイエスさまが共にいてくださり、このような私にも、あなたも私の愛する子、と呼びかけていてくださることを感謝します。
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