〔イエスの洗礼と私たちの洗礼〕
2015年1月11日(日)
人が神に対して人という被造物として自らに示されている制限の中で歩もうとしないことは、人の罪への「転落」です。そして人の「存在」は、自分自身を、現に神に刃向う反逆者として認めようとせず、自らをむしろ美化し、言い訳し、正当化し、神に対して正しいとする罪の中にある存在です。
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イエスも常にこの新たな誘惑の中におられました。
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神の子として神に等しくあられたイエスは、自分自身を「放棄された」、イエスは、自分たちが神のようであるという妄想で神に刃向う人びとの列に身を置かれました。
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神に対して自らを正しいとするために犯す、すべての人間存在のこの罪をわが身に受け止めることを表明するためでした。
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イエスは、彼らすべてが決してあろうとしなかったものであることを拒まなかったことで、正義を果たされた。
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イエスご自身が一匹の失われた羊、失われた一つのコイン、失われた息子(ルカ15章)、したがって裁き主として自ら裁かれた者であられました。そうすることで、―ヨルダン河畔でその道の開始を裁き主として始め、そしてゴルゴタの裁かれた者の十字架で完成する、自由なる贖罪において―イエスは神に従順であられたのでした。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、41f。
飛行機に乗ろうと列に並んでいると、特別待遇の方は別の入り口から入っていかれる姿を見ることがあります。自分は特別待遇ではないので長い列のほうに並ばなければなりませんが、特別待遇の方々は並ぶことなく入っていかれるのでずいぶんうらやましく感じたことがありました。
人びとはバプテスマのヨハネから罪の悔い改めの洗礼を授けていただこうと列に並んでいます。この列は罪人の列です。そこにイエスさまも並ばれました。
イエスさまはまことの神さまです。特別待遇を受けて当たり前の方です。しかしそのイエスさまが罪人の列に、罪人と同じように並ばれたのです。そのことを「正しいこと」と言われました。
バルトは、人間の罪とは「神に対して被造物として自らに示されている制限の中で歩もうとしないこと」であるといいます。つまり神になろうとする、神のように裁き主になろうとする、それが人間の罪であるというのです。
イエスさまは、当然特別待遇を受けて良い方でしたが、人となってくださったこの時に、もしその特別待遇の道を歩まれたとすれば、まさに人間の罪を犯してしまわれることとなったでしょう。イエスさまは従順に、「正しいこと」すなわち「罪人と同じ列に並ぶこと」よって、神であろうとする道を拒まれて、人間としての道を全うしようとされたのです。
神であるお方が、神であろうとする道を拒まれて、人間としての道を全うしようとされたこと。ここに「世の終りまであなたと共にいる」というお言葉が実現しました。
キリスト者として歩むということは、まことの人間として歩むということです。このイエスさまのように、神の道、裁き主の道を拒むことです。そうして人間としての道を歩むことです。
(祈り)
神さま、罪人の道に立ってくださったことによって、まさに罪人の道に立たれなかったイエスさま。共にいてくださる恵みを感謝します。
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