神がわれわれにとって非現実的なものとなる時

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〔私たちを試みに会わせないでください〕

2014年9月9日(火)

われわれのうちにひそんでいる快楽への要求が、突然激しく現われることがある。情欲は、逆らうことができないような力を持って肉体を支配する。
・・・
そしてこの時、神が、われわれにとっては全く非現実的なものとなってしまうのである。
・・・
それゆえ聖書は、肉体が誘惑を受ける時に「逃れること」を教えている。情欲に対して自分ひとりの力で抵抗するとしても、必ずや失敗してしまう。ただ「逃れる」ことだけができるのである。「逃れなさい」ということは、「あなたが、助けや援助を見いだすことができる場所に逃れなさい」ということ、すなわち「十字架につけられた方のものへと逃れなさい」ということを意味する。イエス・キリストという方のみが、われわれの助けなのである。イエス・キリストという方がわれわれと共にいれくれることだけが、われわれの助けなのである。そしてわれわれはここで、十字架につけられた肉体を見、あらゆる快楽の終りを認識するようになるのである。われわれはここで、われわれの心を再び冷静にし、自分たちの敵をはっきりと認識するようになるのである。私はここで、肉としての私がすっかり消滅することを認識し、神の怒りがあらゆる肉を正しく裁くということを認識するようになるのである。私はここで、肉としての私が消滅することで、もはや自分自身がサタンに抵抗することができないということを知り、そして、今や、イエス・キリストの勝利こそが、私に与えられるのだということを知るようになるのである。

ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、446ff。

「逃れること」「逃げること」「避難すること」。

「逃れる」という発想はとても大切です。自分の力に過信していると逃れられないのです。状況を甘く見ていると、また襲い来る敵を甘く見ていると逃れられないのです。
「快楽への要求」「情欲」は、自分の中にあるいかに強く見える力によってしても勝つことのできない圧倒的な力をもって私たちを襲います。私たちが選択すべき道はただ「逃れること」だけです。

どこに逃れるのか。よけい危険なところに逃れてしまっては逃れる意味がありません。勝利者キリストのところ以外に安全なところはありません。十字架と復活によってあがないの業を成し遂げてくださったイエスさま以外には私たちを守る安全なところはありません。

イエスさまのもとにあってのみ、冷静にされ、敵の姿を認識し、自分の弱さを知り、イエスさまの勝利が与えられていることを知ることができます。

(祈り)
神さま、十字架のイエスさまのところに、復活のイエスさまのところに逃れさせてください。

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