〔服従と十字架〕
2014年2月26日(水)
「それからイエスは、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分の命を救おうと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うであろう。」(マルコ8:34~35)
服従とは、イエス・キリストの人格に固く結びつくことを意味する。そしてこの服従は、キリストに従う者たちを、キリストの律法のもとに、すなわち十字架のもとに置く。
イエスは、この何ものにも置き換えることのできない真理を弟子たちに伝えるにあたって、驚くべきことに、弟子たちをもう一度全くの自由へと解放した。
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「自分を捨てる」ということは、ただキリストだけを知って、自分をもはや忘れるということである。ただ先立ち行くキリストだけを見て、われわれにとって歩むことが困難と思われる道を見ないということである。自分を捨てる者は、<キリストが先立ち行く。このキリストにしっかりと結びつこう>と言うことができるだけである。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、100頁f。
キリストに従うということは、自分を捨てるということです。自分を捨てるということは自分を忘れるということだとボンヘッファーはいいます。そして自分を忘れるということは、キリストだけを見て目の前の困難な道を見ないということでだといいます。このような信仰の道に自由があります。イエスさまはこの自由の中に、イエスさまに従おうとする者を解放してくださいました。
この世の賢者は目の前の困難な道をしっかりと見つめて歩むことが確かな人生を送ることができるといいます。しかしキリストはキリストだけを見上げて目の前の困難な道を見ないこと、自分自身を忘れてしまうことこそ、確かな人生への秘訣であると語ります。
(祈り)
神さま、明日のことを思い煩うことから自由にしてください。今この時を喜び楽しむことができるように、ただあなただけを見上げさせてください。
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