〔人間とは何か〕
2014年2月20日(木)
「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう。」(創世記2章18~23節)神はアダムのために、ひとりの助け手を、援助者を創造する。・・・なぜ神の保護のもとに生きる人間がなおも助け手を必要とするのか。・・・われわれは創造の出来事の全体と関連から、「男」の上に置かれている人間としての限界を共に担うことによって、「女」は「男」の助け手となったのだと理解することができる。他の人間そのものが、神が私に置いた限界である。すなわち、他の人間とは、神が私にもたらした「私を限界づける者」である。しかし、私はこの者を愛することができ、その愛のゆえにこの限界を踏み越えないでいることができる。被造物(神に限界づけられた者)でありつつ自由であること(他者に対して自由であること)は、他の人間の創造によって初めてその人間を愛するということによって可能になる。
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他者に対する愛が破綻をきたすと、人間は自分が限界づけられていることを(他者を自分の思うままにすることができないということを)憎むようになるということである。その場合に、人間はそれでも他者を所有しようとむなしく望むが、絶望のあまり相手をどこまでも滅ぼそうとするかのどちらかである。なぜなら、他者に対する愛を失った彼は、今や自分の権利のみを訴えるようになるからである。それまでは謙虚に受けたものを、今は誇りと反逆の理由とするからである。これがわれわれの世界である。われわれの助け手である他者は、われわれの限界を共に担ってくれる時には恩寵となるのだが、その恩寵が今や呪いとなる。助け手がわれわれの神に対する憎しみをいっそう激烈なものとする。彼のためにわれわれはもはや神の前に生きることができなくなり、彼がわれわれを滅びに定めることになる。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、91頁ff。
アダムにとってエバの存在は喜びでした。しかし神さまの言葉ではなくエバの言葉に従ったとたん、すなわちエバが神さまよりも大切なものになった時、エバは憎しみの対象となりました。アダムがエバを神さまよりも大切なもの、エバを神さまのようにしてしまったということは、エバを人間の限界の中においておかなかったということで、それはもはやエバを人間として愛することをやめてしまったということでしょう。
互いに限界のある人間であるということをわきまえ知ること、それは愛することによって可能です。過度に期待したり、依存したりするのは、愛していることではありません。神のように要求し続けるのは、愛しているのではなく利用しているのです。
利用できなくなると、依存心は激しい憎しみに容易に変わるのです。
(この辺は、岡田尊司、『パーソナリティ障害ーいかに接し、どう克服するか』(PHP新書)の「妄想性パーソナリティ障害」の項が説明している内容にすこしあてはまる感じがします。)
私たちは隣人を正しく愛さなければなりません。それはお互いに神さまの被造物であり限界をもった人間であるということを知っているということです。それを乗り越えてしまったとたん、愛は愛でなくなり、滅びの人間関係に突き進んでいきます。
(祈り)
神さま、正しく隣人を愛することができるように助けてください。
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