神の選び人は、いわゆる神の時と思えたその時を、誘惑の時、すなわちみずらを頼んでことを解決するそうしう誘惑の時であると気づいたのです。いっさいの予想に反して、ダビデは、怨敵であり迫害者である者のいのちをいたわります。この人物が主に油をそそがれた者であったためです。
リュティ、『預言者サムエル』、宍戸達訳、新教出版社、1977年1月31日、329ページf
サウルにいのちを狙われ追われるダビデ。逃げ込んだ洞穴に全くの無防備でサウルが入ってきました。部下は好機到来、まさに神さまの時である、今こそ討ち取りましょう、と進言します。しかしダビデは手を下しませんでした。ダビデは語ります。「彼は主に油そそがれた方だから。」
リュティはこのダビデの行動を、自らを頼んでことを解決する誘惑に気づいたからである、といいました。自分自身に依り頼んでことを解決することを人間は大好きです。まわりにはそのようにできるかに見える誘惑がたくさんあるのです。それは好機に見えるのです。しかし信仰者はそこでも神さまの御手にゆだねる道を選びます。
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