しかしながら、この神の全能の性格にはある種の制限が存在する。神には、我々が考えるかもしれないどんなことでも勝手に実行できるというのではない。神は、その力を受けるにふさわしい事柄のみができる。したがって、論理的に不合理なことや、矛盾することはできない。正方形の丸とか、四つの角をもつ三角形をつくることはできない。また、過去に起こったものを取り消すことはできない。その結果や記憶までも拭い去るかもしれないが。神には、その本性に反すること-残酷になったり、また無関心であったり-はできない。神には、ご自分が約束したことを果し損ねたりすることはできない。ヘブル人への手紙の記者は、神が約束されたことや、誓いをもってそれを確かにされたことについての言及の中で、「それは、変えることのできない二つの事がらによって、-神は、これらの事がらのゆえに、偽ることができません。-……私たちが、力強い励ましを受けるためです」と語っている(6:18)。しかしながら、これらの「できないこと」はすべて、弱さではなく強さである。悪をなすことができず、嘘をつくことができず、失敗できないことは、弱点というよりもむしろ積極的な力のしるしである。
エリクソン、『キリスト教神学 第2巻』、「第3部 神はどのようなお方か、第13章 神の偉大さ」、24fページ
神さまは、嘘つきではないのです。うそがつけないのです。失敗もできないのです。しかしそのことは弱点というよりも積極的な力のしるしであるというのです。
日本人にとって「神々」というのは人格神ではないので、倫理的に不明確な態度を取る神である場合が多いのではないでしょうか。それに対して聖書の神さまは、全知全能であると共に、善であり愛である神さまです。人格をお持ちの神さまです。だからこのお方にお委ねすることができのです。
悪を行いことが「できない」神さまだから私たちは信頼できるのです。できないことは、積極的な力ですね。
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