礼拝説教から 2019年9月8日

  • 聖書箇所:創世記26章
  • 説教題:信仰と祝福の後継者イサク

 彼らは言った。「私たちは、主があなたとともにおられることを確かに見ました。ですから、こう言います。どうか私たちの間で、私たちとあなたとの間で、誓いを立ててください。あなたと盟約を結びたいのです。私たちがあなたに手出しをせず、ただ良いことだけをして、平和のうちにあなたを送り出したように、あなたも私たちに害を加えないという盟約です。あなたは今、主に祝福されています。」そこでイサクは彼らのために宴会を催し、食べたり飲んだりした。翌朝早く、両者は互いに誓いを交わした。イサクは彼らを送り出し、彼らは平和のうちに彼のところから去って行った。(創世記26章28-31節)

 ペレシテ人の王である アビメレクは、神様がイサクとともにおられるのを見ていました。神様がイサクを祝福しておられるのを見ていました。そして、神様に祝福されているイサクと盟約を結ぶことを望みました。それは、互いに害を加えないという盟約です。アビメレクは神様に祝福されているイサクを恐れていたようです。

 交渉を優位に進めるためでしょうか、アビメレクはイサクに、「私たちがあなたに手出しをせず、ただ良いことだけをして、平和のうちにあなたを送り出した」と主張しました。「良いことだけをして、平和のうちに」送り出したと言うのです。

 どうでしょうか。「よくもまあ、そんなことが言えたもんだ」と思います。実際には、イサクは嫌がらせをされた上に、追放されていたのでした。そして、その嫌がらせは、イサクの留まるその先々でも繰り返されていたのでした。そこには平和がありませんでした。

 イサクはどうしたでしょうか。イサクは、アビメレクの要求に応じたようです。文句の一つも言うことなく、要求された通りに、盟約を結びました。そして、イサクと盟約を結んだアビメレクは、「平和のうちに」去って行きました。喧嘩別れしたのでもなく、追い返されたのでもなく、「平和のうちに」去って行きました。それは文字通りの「平和」だったと言えるでしょう。アビメレクは安心して去って行ったということです。

 どうでしょうか。私は、「平和のうちに」アビメレクを送り出したイサクの姿を見る時、イエス様が山上の説教の中で「八つの幸い」について語られたことばを思い出します。マタイの福音書5章8節です。<平和をつくる者は幸いです。↩ その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。> 

 イエス様が山上の説教の中で語られた八つの幸いというのは、クリスチャンとして認められるための条件のようなものではありません。それは神様ご自身がクリスチャンの中に作り出してくださる姿です。神様は、クリスチャンたちを、「平和をつくる者」にしてくださるということです。

 イサクは神様の祝福に与っていました。それはイサクがいつも神様から経済的な豊かさを与えられていたということではありません。それはイサクが神様との関係の中に生きていたということです。いつもともにいてくださる神様ご自身に満たされ支えられていたということです。

 そして、神様ご自身によって満たされ支えられながら、イサクはアビメレクとの関係の中で、「平和をつくる者」となりました。自分を妬み、自分を苦しめるアビメレクと争うのではなく、アビメレクとの間に「平和をつくる者」となりました。誰よりも優れた者になることによってではなく、豊かな経済的基盤を背景にしてではなく、神様ご自身に満たされ、支えられる中で、「平和を作る者」になりました。神様の祝福は、一時的に「妬み」を生み出したかのように見えましたが、最終的には「平和」を生み出しました。

 私たちはどうでしょうか。神様の祝福に与っているでしょうか。神様との関係の中に生きる祝福、神様ご自身によって満たされ支えられる祝福に与っているでしょうか。そうして、人と人との関係の中で、「平和をつくる者」となっているでしょうか。

 毎週日曜日の礼拝の中で、祝福の主である神様ご自身を見上げたいと思います。十字架にかかられたイエス様を見上げながら、私たちの祝福を願っておられる神様のみこころは決して変わることがないことを覚えたいと思います。その神様との関係の中で満たされ支えられたいと思います。そうして、「争いをつくる者」ではなく、「平和をつくる者」とされたいと思います。

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