礼拝説教から 2019年6月2日

聖書箇所:創世記15章
説教題:契約の神に支えられて

 すると主は彼に言われた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩のひなを持って来なさい。」彼はそれらすべてを持って来て、真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。ただし、鳥は切り裂かなかった。(創世記15章9-10)

 日が沈んで暗くなったとき、見よ、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、切り裂かれた物の間を通り過ぎた。(創世記15章17節)

 神様はアブラムに土地の所有についての約束を与えておられました。それは非常に広範囲に渡る土地でした。しかし、約束はあくまでも約束であって、現実のアブラムにはほんの一握りの土地も与えられていませんでした。

 アブラムは約束について半信半疑だったのでしょうか、約束が確かである根拠を神様に尋ねました。そして、そのアブラムの質問を受けて、神様はアブラムに指示されました。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩のひなを持ってきなさい。」神様の指示を受けたアブラムは、持って来た動物を真っ二つに切り裂いて、互いに向かい合わせにしました。

 とても残酷なことが行われていますが、どういうことなのでしょうか。それは、神様がアブラムと契約を結ぼうとしておられるということです。神様はアブラムと契約を結ぶことによって、約束が確かであることを示そうとしておられるということです。動物が用意されたのは、その契約を結ぶ儀式のためでした。それは、動物を真っ二つに引き裂いて、契約を結ぶ当事者が、その引き裂かれた動物の間を通る儀式です。そしてそれは、「もし契約に違反するようなことがあれば、自分が引き裂かれた動物のようになってもよい」ということを意味しています。神様は、ご自分のいのちをかけて、アブラムと契約を結ぼうとされているのであり、アブラムに対する約束が確かであることを示そうとしておられるということです。

 ところで、実際に契約が結ばれた場面を見ると、ちょっと不思議に思うことがあります。それは、契約を結ぶ一方の当事者であるアブラムは、切り裂かれた動物の間を通り過ぎていないということです。

 「切り裂かれた物の間を通り過ぎた」「煙の立つかまどと、燃えているたいまつ」は、神様を示していると言えるでしょう。神様は切り裂かれた動物の間を通り過ぎられたのでした。しかし、アブラムは通り過ぎていません。

 どういうことなのでしょうか。それは、神様がアブラムに何も要求することなく、一方的に契約を結ばれたということです。神様は、ご自分だけが契約に対する義務を負う者となって、アブラムと契約を結び、約束が確かなものであることを宣言されたということです。ご自分のいのちをかけて、約束が確かなものであることを宣言されたということです。アブラムに求められたのは、神様がご自分のいのちをかけて結んでくださった契約の確かさを覚えることだけでした。ご自分のいのちをかけてくださった神様の愛を覚えることだけでした。

 この後のアブラムの歩みを続けて見ていくと、相変わらずふらふらしている姿が目につきます。アブラムは、神様の約束を信じることができなくて、逆に神様の約束の実現を妨げるようなことをしたりします。そしてそれは、後にアブラムに与えられた子孫たちも同じでした。アブラムの子孫たちは、神様の祝福を受け、神様に支えられて生きる民とされたにもかかわらず、神様との関係を軽んじました。自分たちを愛していてくださり、自分たちの祝福を願っておられる神様を捨てたのでした。

 しかし、神様はそのアブラムの子孫たちを決して諦めたりはなさいませでした。むしろ、アブラムの子孫たちを愛し、彼らがご自分を信頼して、ご自分に支えられて生きることを願われました。そうして、神様ご自身が十字架にかかられました。引き裂かれた動物たちのように、十字架の上でご自分のいのちをささげてくださいました。神様ご自身が契約に違反をされたわけではないにもかかわらず、アブラムとその子孫たちとの契約が守られるために、彼らとご自分との関係が守られるために、十字架の上でご自分のいのちをささげてくださいました。

 私たちは、この十字架にかかられた神様、主イエス・キリストを信じることによって、アブラムの子孫に加えられています。アブラムとともに、神様との関係の中で、神様の祝福を受けて、神様の愛に支えられて生きる民とされています。

 その私たちの信仰はどうでしょうか。アブラムと同じように、ふらふらしていることが多いということはないでしょうか。様々な問題に直面する現実の歩みの中で、神様のことばが分からなくなったり、神様から愛されていることが分からなくなったりしていることはないでしょうか。そうして、神様との関係の中で、神様に支えられて生きる道ではなくて、自分で生きる道を模索したりしていることはないでしょうか。

 ご自分のいのちをかけてアブラムと契約を結ばれた神様は、ご自分のいのちをささげて、私たちとの関係を大切にしてくださっています。私たちがご自分に支えられて生きることを願っておられます。私たちはその変わることのない神様の愛と願いを、十字架によって知ることができます。

 毎週日曜日の礼拝の中で、十字架にかかられた神様、主イエス・キリストを見上げることができることを願います。神様がご自分のいのちをささげるほどに、私たち一人一人を愛していてくださり、私たちとの関係を大切にしていてくださることを、覚えたいと思います。そうして、その神様ご自身に支えられて、神様の確かなことばを信じて歩むことができることを心から願います。

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