礼拝説教から 2019年2月10日

 

聖書箇所:創世記2章18-25節
説教題:互いに向き合う助け手として

 また、神である主は言われた。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」(創世記2章18節)

 神様は「人がひとりでいるのは良くない」と言われました。そしてそのために、「わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう」と言われました。神様は、一人でいる最初の人、アダムのために、「ふさわしい助け手」を造ろうと言われたのでした。そしてそれが、アダムの妻となり、後に「エバ」と名づけられる女性でした。

 それでは、「ふさわしい助け手」というのは、どのようなものなのでしょうか。「助け手」と言うと、どうしてもその位置づけの低さを感じさせられるのではないかということを思います。アダムが男性であり、「ふさわしい助け手」が女性であることを念頭に置く時、何となく女性が低く位置づけられているかのような印象を受けるのではないでしょうか。あくまでも男性がメインであり、女性はその「助け手」、助手やヘルパーのような位置づけしか与えられていないということです。

 「ふさわしい」と訳されている部分は、岩波訳では「彼に向き合うような」と訳されています。男性がメインで、女性がメインである男性に「ふさわしい助け手」だというのではなくて、男性と女性は「互いに向き合うような助け手」だということです。そこに上下の関係はありません。男性と女性は「互いに向き合って助け手となる」関係にあるのであり、対等なパートナーであるということです。ちなみに、鍋谷堯爾という神学者は、『創世記を味わう』の中で、この「彼に向き合うような」という訳が最も適切だと評価しておられます。

 最初の人であるアダムは、この「ふさわしい助け手」を、動物の中からは見つけることができませんでした。なぜなら、動物は人のために良い助け手になることはできるとしても、それは、人と動物が「互いに向き合う助け手」になり得ることとは、異なるからです。人は同じ人との出会いの中でこそ、「互いに向き合う助け手」を見つけることができるということです。そして、神様はその「互いに向き合う助け手」を、最初の人であるアダムに与えてくださいました。

 創世記2章において、「互いに向き合う助け手」として、アダムに女性が与えられた出来事は、特別に結婚とおいう関係が念頭に置かれています。結婚という関係の中で、「互いに向き合う助け手」について記されています。

 しかし、男性と女性が「互いに向き合う助け手」であるというのは、結婚という関係の中においてのみ言えることではありません。すべての男女の関係において言えることです。人と人か関わりを持つあらゆる所において、男性と女性は「互いに向き合う助け手」であり、ともに生きるパートナーだということです。

 神様は、男性と女性を「互いに向き合う助け手」として造られました。この神様の創造の秩序の中で、男性と女性が互いに向き合って、互いに助け手となることができればと思います。ともに生きるパートナーとして、互いに支え合うことができればと思います。

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