礼拝説教から 2018年11月18日

  • 聖書箇所:マルコの福音書16章1-8節
  • 説教題:復活
 彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。(マルコの福音書16章8節)
 十字架の上で息を引き取られたイエス様は、アリマタヤ出身のヨセフによって、墓に納められました。そしてそこには、イエス様が墓に納められる場面を見守っていた女性たちがいました。
 女性たちは、安息日が終わるのを待って、そしてさらにもう一晩を待って、イエス様の納められている墓に行きました。それは、イエス様を丁寧に埋葬するためだったと言えるでしょう。そして、その墓で、女性たちは驚くべき事実を知らされました。イエス様の復活です。イエス様はよみがえられて、もう墓の中にはおられないという事実です。
 愛するイエス様はよみがえられたのでした。それは、喜びの知らせだったことでしょう。
 しかし、イエス様がよみがえられたという知らせを聞いた女性たちは、喜んだのではありませんでした。「愛するイエス様がよみがえられた、こんなに素晴らしいことはない、万歳、万歳」とでも言って、喜んだのではありませんでした。そうして、弟子たちの所に飛んで行って、その喜びの知らせを伝えたというのではありませんでした。
 そうではなくて、女性たちはとにかく逃げ去ったというのです。震え上がって、気が動転していたというのです。恐ろしくて、誰にも何も言わなかったというのです。
 愛するイエス様がよみがえられたという知らせ、それは喜びをもたらすものであるはずです。だからこそ、「福音」と呼ばれるわけです。しかし、その喜びの知らせに接した女性たちは、ただちに喜びに包まれたわけではありませんでした。喜びに躍り上がったわけではありませんでした。そうではなくて、逃げ去ってしまったのでした。パニックになってしまったのでした。恐ろしくて誰にも何も言えなかったのでした。
 どういうことでしょうか。イエス様の復活、神様のなされた働きにまともに向き合わされた時、人間は何よりもまず驚かざるを得ないということではないでしょうか。パニックにならざるを得ないということではないでしょうか。恐ろしくて沈黙せざるを得ないということではないでしょうか。
 イエス様の復活、それは何よりもまず、私たちに驚きや恐れをもたらすものだということです。人間の理解や常識を根底から覆し、人間をパニックに陥らせるものだということです。沈黙に陥らせるものだということです。
 そして、最初に書かれた福音書、マルコの福音書では、人間に驚きと恐れをもたらす神様の圧倒的な働きそのものの力が、強調されているということになるでしょう。マルコの福音書の中で、イエス様の復活の出来事は、私たちが驚きと恐れをもって向き合うべきものとして、恐れおののくべきものとして、記されているということです。
 しかし、その驚きや恐れをもたらすイエス様の復活は、同時に喜びをもたらすものでもあります。マルコの福音書には記されていませんが、女性たちはずっと恐れていたのではありませんでした。ずっとパニックになっていたのではありませんでした。死ぬまで沈黙していたのではありませんでした。そうではなくて、後には喜びに包まれて躍り上がったのでした。喜びに包まれて、むしろ口を閉じていることができなかったのでした。
 どうしてでしょうか。なぜなら、驚きや恐れをもたらしたイエス様の復活は、同時に、死に対する恐れを取り除くものだったからです。イエス様の復活によって、死はすべての終わりを意味するものではなくなったからです。すべての終わりを意味していた死を、もうこれ以上恐れる必要がないことを教えられたからです。復活によってもたらされた恐れは、死に対する恐れを取り除くものになったということです。
 大切なことは何でしょうか。それは、イエス様の復活の出来事を、驚きと恐れをもって向き合うことです。イエス様の復活という、神様のなされた圧倒的な働きそのものの力に、恐れおののくことです。そうして、イエス様の復活の出来事に、神様のなされた圧倒的な働きそのものの力に恐れおののきながら、これ以上恐れなくてもいいものから解放されることです。復活の出来事に恐れおののく中で、イエス様が決して死に支配されない方であることを知り、これ以上何の力も持っていない死の力から、解放されることです。イエス様の復活の出来事に恐れおののきながら、すべての終わりを意味していた死の力から解放されていることを喜ぶことです。イエス様の復活のいのちに与って生きる喜びを味わうことです。
 私たちはどうでしょうか。イエス様の復活の出来事をどのように見ているでしょうか。いつも新鮮な驚きと恐れをもって、向き合っているでしょうか。あるいは、「もう何回も聞いた」こととして、「もう分かっている」こととして、驚きや恐れを失ってしまっていることはないでしょうか。そうして、もう解放されているはずの死の力に、捕えられたままでいるということはないでしょうか。
 毎週日曜日の礼拝の中で、驚きと恐れをもって、イエス様の復活の出来事と向き合うことができればと思います。「もう何回も聞いた」、「もう分かっている」こととしてではなくて、いつも、驚くべきこととして、恐れるべきこととして、イエス様の復活の出来事と向き合うことができればと思います。そうして、その驚きと恐れの中で、イエス様が死に勝利されたことを覚え、死を滅ぼしてくださったことを覚えながら、死に対する恐れ、あらゆる恐れから解放されることを願います。イエス様の復活のいのちに与って、新しく生きる喜びみ満たされることを心から願います。

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