礼拝説教から 2018年9月16日

  • 聖書箇所:マルコの福音書14章27-31節
  • 説教題:弟子たちのつまずき
 しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」(マルコの福音書14章28節)
 最後の晩餐となった過越の食事の後、オリーブ山へと向かう夜道の中で、イエス様は、弟子たち全員のつまずきを予告されました。
 しかし、イエス様が弟子たちに言われたのは、弟子たちのつまずきについてだけではありませんでした。弟子たちのつまずきを予告した後、イエス様は「よみがえってから、ガリラヤに行く」と言われたのでした。イエス様は、ご自分の死によって、弟子たち全員がつまずくことを踏まえた上で、弟子たちよりも先に、ガリラヤに行くと言われたのでした。ガリラヤで待っていると言われたのでした。
 どういうことでしょうか。そこには、ご自分を見捨てて逃げる弟子たちを赦し、その弟子たちの新しいスタートを願うイエス様の思いが込められていたのではないでしょうか。
 この時の弟子たちには、イエス様のことばを理解することができなかったと思います。分からないどころか、もしかしたら、聞こえてすらいなかったかも知れないと思います。自分が前面に出て、自分を主張することに必死だった弟子たちには、「よみがえってから、先にガリラヤに行く」などというイエス様のことばは、まったく聞こえていなかったのではないかと思います。しかし、そのイエス様が約束されたガリラヤで、弟子たちは新しくスタートすることができたのでした。
 ガリラヤというのは、どのような所でしょうか。それは弟子たちの故郷でした。つまり、イエス様が十字架にかかって死なれた後、信仰を失って、夢の破れた弟子たちが帰って行く所です。
 弟子たちはどのような思いでガリラヤに帰って行くのでしょうか。そこには、「この方こそが」と思って従ってきたイエス様が、死んでしまわれたことから来る失望の思いがあったかも知れません。そして、その「この方こそが」と思って従ってきたイエス様を、あっさりと見捨てて逃げてしまった自分たち自身に対する失望の思いがあったかも知れません。
 ガリラヤ、それは弟子たちが大きな希望を持って帰る所ではありません。「故郷に錦を飾る」というような所ではありません。そうではなくて、深い失望の思いを抱いて帰る所です。
 しかし、その深い失望を抱いて帰ったガリラヤで、弟子たちは復活のイエス様と出会ったのでした。ぼろぼろになって帰ったガリラヤで、復活のイエス様と出会ったのでした。自分たちのつまずきを承知の上で、むしろその自分たちの罪が赦され、自分たちが新しくスタートするために、自分たちの信仰が支えられるために、十字架にかかってくださったイエス様の愛を知ったのでした。ガリラヤで復活のイエス様と出会ったことによって、弟子たちは自分で自分を支えてきたのではなく、ずっとイエス様に支えられてきたことを知ったのでした。そうして、復活のイエス様とともに、イエス様に支えられる歩みをスタートさせたのでした。
 ペテロを始めとした弟子たちのつまずき、それはこれ以上ない挫折の経験でした。その弟子たちがもう一度立ち上がりました。大きなつまずきを乗り越えました。それは、弟子たちの信仰が強くなったということではありません。そうではなくて、それは、弟子たちが、信仰の弱い自分たちを受け入れることができるようになったということです。イエス様を見捨てて逃げた経験を通して、その自分たちがイエス様から赦されているという経験を通して、弟子たちは、強い自分を誇るのではなく、弱い自分を支えていてくださるイエス様を誇るように変えられていったということです。
 大切なことは、どのような困難にも負けないような信仰を持つことではありません。どのような状況の中でも、いただいた信仰を貫く強さを身につけることではありません。そして、その強い自分を誇ることではありません。そうではなくて、それはむしろ、そのような強い自分を誇ることから解放されて、弱い自分を認めることです。弱い自分を受け入れることです。そうして、イエス様によって支えられることです。支えていてくださるイエス様を誇ることです。
 私たちは、いつのまにか、自分を前面に押し出して、自分を誇っていることはないでしょうか。そうして、自分で自分の信仰を支え、自分の力で立っているかのように思っていることはないでしょうか。
 毎週の礼拝で語られる十字架の恵みのことばに耳を傾けながら、十字架の恵みなしには、立っていることのできない自分であることを知ることができればと思います。その十字架の恵みによって、支えられ養われている自分であることを覚えたいと思います。そうして、自分を強めようとするのではなく、その自分を前面に押し出そうとするのではなく、弱い自分を支えていてくださるイエス様を誇りたいと思います。弱い自分を支えていてくださるイエス様を喜び、そのイエス様を証ししていきたいと思います。

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