礼拝説教から 2018年8月5日

  • 聖書箇所:マルコの福音書13章14-27節
  • 説教題:主の選びに支えられて
 『荒らす忌まわしいもの』が、立ってはならない所に立っているのを見たら——読者はよく理解せよ——ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。(マルコの福音書13章14節)
 イエス様は、世の終わりに際して、「『荒らす忌まわしいもの』が、自分の立ってはならない所に立っている」のを見ると言われました。そしてその際には、「逃げなさい」と言われました。
 実は、イエス様は直前の所で、「最後まで耐え忍ぶ人は救われる。」(13)と言われています。襲いかかってくる苦難の中で耐え忍びなさいと言われているのです。
 この「耐え忍ぶ」ということばと、「逃げる」ということばとは、矛盾するように見えます。苦難の中で耐え忍ぶというのは、逃げないで踏み止まる、苦難と戦っていくということであるように思えます。しかし、イエス様は一方で「耐え忍ぶ」ことを教えられながら、その一方で「逃げる」ことを教えておられるのです。どういうことなのでしょうか。
 「逃げる」というのは、当然のことながら、イエス様を否定することではありません。信仰を捨てることではありません。そうではなくて、それは、自分の力で戦うことを止めることです。何が何でも忍耐をして、忍耐に忍耐を積み重ねて、信仰生活をまっとうしようとする、最終的な救いを勝ち取ろうとすることを止めることです。自分の力によって、最終的な救いを獲得しようとする努力を止めることです。
 私たちが救いの恵みに与ったのは、自分の力によるのではありません。自分の中に、救われるべき根拠となるような何かがあったからではありません。そうではなくて、ただイエス様が愛してくださったからです。イエス様が私たちを愛するがゆえに、十字架の上で死んで復活することによって、私たちに救いを恵みとして受け取る道を開いてくださったからです。
 同じように、イエス様の恵みによって始まった信仰生活をまっとうするのも、与えられた救いを完成するのも、私たちの力によるのではありません。私たちの忍耐が、信仰生活をまっとうさせるのでもなく、最終的な救いをもたらすのでもないのです。
 だからこそということになるでしょうか、世の終わりに襲いかかってくる苦難に際しては、イエス様は「逃げなさい」と言われたのでした。余計なことは心配しないで、とにかく逃げなさいと言われたのでした。そして、この「逃げなさい」ということばは、そのままイエス様が私たちの救いを保証してくださるということを示していると言えるでしょう。
 20節には、<そして、もし主がその日数を少なくしてくださらないなら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、主は、ご自分で選んだ選びの民のために、その日数を少なくしてくださったのです。>とあります。イエス様は、主なる神様が、世の終わりに襲いかかってくる苦難の日数を少なくしてくださらないなら、一人として救われる人はいないと言われました。しかし、神様がその日数を少なくしてくださったと言われました。どうしてでしょうか。それは、「ご自分で選んだ選びの民のために」ということでした。
 世の終わりに襲いかかってくる苦難の中では、本来なら誰も救われる人がいません。しかし、神様は「ご自分で選んだ選びの民のために」、その日数を少なくしてくださったのでした。そうして、「ご自分で選んだ選びの民」を救い出してくださるというのです。
 そうすると、どういうことになるでしょうか。それは、最終的な救いが、神様の「選び」によってもたらされるということです。私たちの忍耐や努力によってではなくて、神様の「選び」によってもたらされるということです。私たちは、神様が選んでくださったからこそ、最終的な救いに与ることができるということです。そして、だからこそ、私たちはすべてを神様に委ねて、逃げることができるということです。逃げながらも、神様が選んでくださっているという事実に支えられて、後に味わうことのできる喜びを待ち望みながら、耐え忍ぶように励まされているということです。
 イエス様は最後のことを語られました。その時には、太陽が暗くなり、月が光を放たなくなり、星が天から落ち、天にあるもろもろの力が揺り動かされると言われました。地上を照らす光はすべて失われて、闇が支配することになるということでしょうか。これはまさに、世の終わりのような出来事だと言えるでしょう。
 しかし、それが終わりではありません。この世界は闇に包まれて終わるのではないということです。どうなるのでしょうか。イエス様がもう一度、この世界に帰って来られるということです。復活して、天に昇り、父なる神様の右の座に着いておられるイエス様が、もう一度この世界に帰って来られるということです。そしてそこに、永遠の支配を打ち立ててくださるということです。
 そのイエス様はご自分の「選びの民」を集めてくださいます。「御使いたちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者たちを四方から」集めてくださるというのです。イエス様は、ご自分の選んだ人々をちゃんと覚えていてくださって、集めてくださるというのです。逃げて散り散りになっていた人々を、「お前らなんか知らん」と言って見捨てるのではなくて、集めてくださるというのです。
 イエス様がもう一度来られる時、そこで明らかになるのは、私たちの救いがイエス様の選びにあるということです。その選びの確かさが、イエス様がもう一度来られる時に、明らかにされるということです。
 私たちは弱い者です。時に、倒れたり逃げ出したりしてしまうような者です。もし、そのような私たちの力や忍耐に、私たちの救いがかかっているとしたら、私たちは誰も救われないでしょう。
 しかし、私たちの救いは神様の選びにあります。決して変わることのない、神様の選びにあります。
 神様が呼び集めてくださった毎週の礼拝で、私たちを選んでくださった神様の恵みを覚えることができればと思います。神様が私たちを選んでくださったことを確認し、その選びの確かさを確認し、そうして、日々の歩みの中へと遣わされていきたいと思います。落ち着いて日々の生活を送りながら、もう一度来られるイエス様を待ち望みたいと思います。

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