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めぐみのパンくず

もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかしあなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。”  ヨハネ15:19

◎人間は根本的に、まことの神を嫌う存在です。しかし、世界中で宗教を(それが土俗信仰であれ)持たない民族はありません。何かを神とします。いくつかの理由で。人間は弱い存在ですから、何かに頼らねば不安であり。また自分の利益のために神をまつり上げます。欲の延長線上に宗教があるのです。「家内安全」「健康」「ご利益」が信仰の中心です。それに加えて、人間の自尊心がまことの神を拒否するのです。

◎イエスさまは弟子たちに、迫害が迫ることを話されました。弟子は師のように扱われると。なぜでしょうか。キリスト教の伝道は罪の悔い改めと赦しを迫るからです。「これを信じたらしあわせになります」の前に「悔い改めて神を信ぜよ」と迫られるのがたまらないのです。そのままでは誰も天国へは行けないと宣言されると自尊心がゆるさないのです。ユダヤ人である律法学者でさえ(旧約聖書をよく読んでいたにかかわらず)、罪からの救い主、そのために人となって来て下さったイエスさまを受け入れませんでした。なぜならイエスさまは罪を指摘されたからです。

◎救いに対して、まことの神がおられたら困るような生活を送る人々、世の生活のこといっぱいで、こころが硬化してしまった人々、弟子たちはそこへ遣わされて行くのですから、イエスさまとよくよく話されたのでした。

めぐみのパンくず

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。” ヨハネ15:16

◎ぶどうの木の喩で、イエスさまにとどまり続ける事を話されました。木の枝として、またイエスさまの愛の中にとどまり続ける事を。

◎続いてイエスさまは「互いに愛し合う」ことの命令をなさいます。12節と14節で。この間二つのことを話されました。

◎第一にイエスさまこそ真の友であるということです。「いのちを捨てるほどの愛を、誰も持っていない」と言われることとは!人は個人的に友のためにいのちを捨てることはあるでしょう。しかし、イエスさまに来る人すべてを友と  され、いのちを捨てられた方は他にありません。◎このイエスさまを友とさせていただく条件はイエスさまの愛の戒めに従う事です。嬉しい事に、僕であったものを友に昇格して下さるのです。

◎イエスさまの友としてのしるしは結実です。福音の世界は、イエスさまにとどまり続ける人によって全世界に広がって行きました。しかし福音の実を結ぶことは難しいと思われますね。そこでイエスさまは「わが名により、父に祈れ」と言われるのです。福音の実を結びたいとの願望が強い時にこそ、祈ることだと思います。

◎教会に導かれた人々が、そこに愛があることを発見できる教会でありますように!

めぐみのパンくず

“わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。“ヨハネ15:1

◎ぶどうの木はイスラエルの象徴でした。詩篇80:8に「あなたは、エジプトから、ぶどうの木を携えだし、国々を追い出して、それを植えられました」。とありますが、残念ながらイスラエルの民は豊かな繁栄と祝福をもたらすことが出来なかったのです。

◎そこで、イエスさまはまことのぶどうの木としてご自身を示して下さいました。そして、キリスト者はそのぶどうの木の枝なのです。ぶどうの枝は実を結ぶためだけに存在します。松の枝などのようにその枝ぶりが見事だとほめられることのためにはありません。

◎豊かな実を結ぶためには、イエスさまにつながり続ける事だけが条件です。「とどまっていなさい」と言うことばが何回も書かれています。口語訳聖書では「つながっていなさい」です。枝だけでは実を結ぶことが出来ないからですね。

◎具体的につながるということはどう言ったことでしょう。二つの事が記されています。一つはみことばにつながることです。イエスさまからの豊かな供給はみことばをともなったものです。自分の願いが先行するのではありません、イエスさまのみこころが成就して行くのです。二番目は、いつもイエスさまに愛されていること、またイエスさまを愛していることです。キリスト者にとって無くてならないことは、イエスさまに愛されていると言う思いですね。

◎枝に結ばれる実はどんなものでしょう。御霊の実(ガラテヤ5:22,23)と救霊の実が代表的なものとしてあげられるでしょうか!これらが結ばれたことを見る時、本当に喜びが湧き上がるのです。

◎父なる神さまは農夫です。多くの実を結ぶために刈り込みをなさることも忘れてはいけないと思います。

めぐみパンくず

“わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしはあなたがたに平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。”ヨハネ14:27

◎キリスト者は過去に十字架の赦しを体験し、未来に天国の望みを持つものです。そして現在、信仰生活には聖霊がいつもともなって下さいます。その御霊が共にいてくださる最大のしるし、それは「平安」です。しかし、イエスさまは、この世が与える平安とは違うと言われました。どんなものなのでしょうか。

◎第一に神との関係における平安です。ロマ書5:1,2に「神との平和を持っている」とあります。信仰によって義とされた私たち、神のこどもとして新しく生まれた者の心には神と和解させていただいたと言う、関係における平和・平安があるのです。

◎この平安はキリスト者の毎日の歩みに伴います。天国までの道のりを平安が支えてくれます。使徒15:33には「平安のあいさつに送られて」とありますが、使徒たちはシャロームのあいさつで旅をつづけました。キリストの平安がいつでも一緒にある、神なく望みなかった過去と比べて、今はいつでもどこでも、イエスさまが共にいてくださる一緒に歩いて下さると言う平安です。

◎そして、最後に召される時の「平安」です。死は恐れの王です。死が平気な人はいないでしょう。しかし、キリスト者には召される時に平安がともなうのです。ルカの福音書2章にシメオンが幼子のイエスさまを抱き上げた時のことが記されています。シメオンは言います。救い主を見たから「安らかに去らせて下さいます。」と。

◎キリスト者にはいつも主が約束して下さった平安がともないます。それは聖霊の働きによるのです。

めぐみのパンくず

わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでも、あなたがたと、ともにおられるためにです”    ヨハネ14:16

○イエスさまは天の住まいについて話された後、その道中、キリスト者の信仰生活を共に歩んで下さる聖霊について話されました。キリスト者にとって過去と未来ははっきりしています。救われたことと、天国へ行くことです。問題はその間なのです。そこで、父なる神さまにお願いされ「助け主」「真理の御霊」がともにいてくださって歩ませて下さるようにして下さいました。私たちの信仰の歩みはこの聖霊によって立っているのです。

○さて助け主なる聖霊とは、「側から手をさしのべて」下さるお方です。倒れそうになる時、道に迷った時、信仰の道を正して下さるのです。

○また「ともに住み」「うちにおられる」vs17とも言われます。イエス様の御霊が内から語り、キリスト者としての品性の実、イエスさまの形へと育てて下さるのです。イエスさまを信じる前からこのお方が働いていてくださった事も知るのです。現在の私たちの歩みはこの方にかかっているのです。

○ユダ(イスカリオテでない)が質問しました。「世の人には現れないのですか」と。このことに対してイエスさまは①世は「受け入れもせず」「見ようとも、知ろうともせず」②「イエスさまのことばを守らない」と、それはイエスさまを「愛さない」からです。

○第三位のお方は、デリケートなお方です。キリスト者がこの聖霊なるお方とどうお交わりし、このお方に信頼して行くことが、信仰生活の秘訣です。イエスさまの身の丈まで成長させてくださる方である事を信じ、み言葉と共に大切に歩んで行きたいと思います。