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めぐみのパンくず

“うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。”    ヨハネ7:24

○「わたしの時はまだ来ていません」と兄弟たちから仮庵の祭りに行くように言われても、拒否なさったイエスさまが「公にではなく、いわば内密に上って行かれた」と聖書は記します。そのあたりのところを探ってみましょう。

○第一に人々の反応をごらんになりたかったのでしょう。イエスさまを「良い人」と見る人「群衆を惑わす」と密かに人々は言っていました。この態度はユダヤ人、特に宗教的指導者を恐れての態度だったと聖書は記します。

○仮庵の祭りが中ごろになった時、イエスさまは宮に上って教えられはじめました。まず、この教えは父なる神さまからのものである事vs16.それが理解できる人は神のみこころを行おうと願う人であることを。残念ながらそのような人はいないと言われます。「だれも律法を守っていません」と。それどころかイエスさまを殺そうと思っていたのです。

○その原因は、イエスさまが安息日に、38年間病気で苦しんでいた人を癒されたことにあったのです。安息日には何もしてはならないと言うのです。イエスさまは彼らに「安息日に、割礼を与えているではないか」と言われます。割礼はユダヤ人にとってモーセの律法が守られるための大切な儀式と考えていました。かたちを整え律法にかなっていると思いこんでいるユダヤ人たちに、イエスさまは、「人の全身を健やかにする方が」正しいのだと言われました。

○安息日(礼拝の日)はかたちではありません。霊と心と身体を主によって健やかにされる時なのです。

めぐみのパンくず

“そこでイエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがの時はいつでも来ているのです。”       ヨハネ7:6

◎イエスさまの孤独を思います。大勢の人々はイエスさまが、腹を満たしてくれる都合の良い指導者と考え、多くの弟子たちは、イエスさまがいのちのパンである事、イエスさまの血潮を飲み、身体なるいのちを食さなければ真の信仰はありえないことが理解できず去って行きました。ここでは肉親の兄弟たちが、わけもわからず、イエスさまに向かって仮庵の祭りがおこなわれるユダヤへ行って「自分を世に現せ」というのです。

◎イエスさまは「わたしの時」、人々に救い主としてあらわす時はまだ来ていないと言われました。この時の“時”は特別の時をあらわします。時々刻々流れて行く時ではありません。神さまが特別な事のために特別に働かれる時なのです。人間が思う自分本位の時ではないのです。

◎イスラエルには三大祭がありました。過ぎ越しの祭り、刈入れの祭り、そして仮庵の祭りでした。刈り入れの祭りはやがてペンテコステ、聖霊降臨の日に繋がって行きますし、仮庵の祭りは「取り入れの祭り」とも言われ、再臨、終わりの日の取り入れを象徴しているように思います。

◎この二つの祭り、ペンテコステと再臨の前にイエスさまは過ぎ越しの祭りの屠られる羊になるために、人々の前にご自分を現さなければなりませんでした。いきなり仮庵の祭りの主人公にはなられなかったのです。

◎キリスト者にも、三つの祭りがあります。十字架(過ぎ越し)、ペンテコステ(刈入れの祭り)、主の再臨を待ち望む天国への(仮庵のまつり)です。

めぐみのパンくず

“すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。わたしたちがだれのところに行きましょう。あなたは永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。”

ヨハネ6:68,69

◎イエスさまの肉を食べ、血を飲まなければ(永遠の)いのちはないとイエスさまは言われるのです。このことが多くの弟子たちのつまずきになりました。彼らは「これはひどいことばだ」としか取れなかったのです。弟子たちの多くのものが去って行きました。

◎十二弟子たちにイエスさまは「あなたがたも、離れたいと思うのか」とたずねられたところ、打てば響く鐘のようにぺテロが応答するのです。三つの告白をしました。①「誰の所に行くでしょう」②「永遠のいのちのことばをもっておられるのはあなたです」③「神の聖者であることを信じ知っています」と。イエスさまこそ信仰生活の動力であり、神と共に歩む者としてのいのちの供給源であることを告白したのです。

◎ペテロの告白を主は喜ばれた事でしょう。しかし、その残った12弟子の中には後に裏切るユダが含まれていました。イエスさまはご自分を銀貨30枚で売ってしまうことになるユダを「悪魔である」とはっきり宣言されたのです。イエスさまと共に暮らし歩いた者のであったとしても、くるいが生じるのです。

 それは、離れて行った大勢の弟子たちのように、イエスさまの語られるいのちのことばを自分のものにしなかったことでしょう。また、十字架への偏見が大きかったであろうと思います。その動機はイエスさまを愛する愛ではなく、欲を満たすためのものに他ならなかったのですから。

 新聖歌404番、「弟子となしたまえ、わが主よ、わが主よ~」と歌うキリスト者は、「ユダにはなるまじ、わが主よ、わが主よ」と心から祈りつつ賛美するのです。

めぐみのパンくず

“わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんな時にも、渇くことがありません。”           ヨハネ6:35

◎五つのパンと二匹の魚で群衆の腹を満たされたイエスさまを王にしようとして人々はカペナウムまで追いかけて来ました。いつの時代もまず腹(経済的安定)を満たしてくれる指導者を求める民衆の姿です。

◎しかし、イエスさまはもっと大切な目的のため「いのちのパン」として来られたのです。その命のパンを本当に得るための人々との問答が始まります。

◎第一のことは「何をするか」でなく「何を信じるかです」。「飢えることなく、渇くことがない」と言われるお方を信じるのです。それは内面から始まります。「衣食足りて清節を知る」世界ではありません。まず内側からの変化を与えて下さる方を求めるものです。

◎第二に聖書のみことばを読むことです。45節に「彼らはみな神によって教えれる」と預言者の書を引用されていますが、みことばは養いの糧です。いのちのパンもみことばです。53節には「人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ~いのちはありません」とも言われていますが、イエスさまの十字架の救いへの感謝、その深み、神さまの子どもとしての霊的成長に至るために日ごとに食するものなのです。

◎イエスさまは「わたしはいのちのパンです。」35、48.「天から下って来たパンです」50,51と繰り返して言われました。人は食べなければ生きていくことができません。成長することもできません。信仰の世界も同じです。幼子からイエスさまの身の丈までに成長するのです。そのために霊的いのちに生き、成長させるものはイエスさまへ信仰とみ言葉を味わうことです。